特等席〜私だけが知っている彼〜
「ッ!」

荷物を詰めていると、五十鈴との数え切れない思い出が頭の中に溢れてくる。ソファに並んで座って映画を観たこと、キッチンで一緒に料理をしたこと、寝室で五十鈴にRoseの歌を聞かせてもらいながら眠ったこと、どれもが大切な思い出である。

「五十鈴くん……」

涙がまた椿芽の瞳から零れ落ちていく。止めようと思っても涙は止めることができず、荷物に大きなシミを作っていく。荷物を詰める手は止まってしまい、椿芽は乱暴に何度も涙を拭った。その時。

「ただいま〜!」

玄関のドアが開く音がした刹那、五十鈴の声が響く。いつもなら五十鈴が帰ってきたら椿芽は急いで玄関へと向かい、彼を出迎える。だが、今日はリビングから一歩も動けなかった。

「椿芽?」

廊下を歩く足音が近付いてくる。そして、ゆっくりとリビングのドアが開いた。ドアを開けた五十鈴は驚いただろう。リビングの真ん中で、椿芽が荷物をかばんに入れながら泣いているのだから。
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