吸血学園
西川秀美はその夜中々寝付けなかった。自分でも判らない、奇妙な予感に怯えて、11時にベッドに入っても睡眠どころではなかった。酷い頭痛、目眩、今年高校2年になったばかりの5月、彼女はその年頃らしく初々しい恋愛に苦悩していた。私立青竜高校の203ルームの同級生、山田洋介に恋をしていたのだが、山田には他に彼女がいるのだった。それでも常の如く、ラインで彼から優しい言葉と滑稽なスタンプを貰ったにも拘わらず、重苦しい気分は一向に回復しなかった。高鳴る呼吸、息苦しさ、彼女は固く瞑目して、眠りの壁を乗り越えるよう努力した。
深い暗闇と静寂が不意に周囲を支配した。彼女は睡眠に入っていけるものと信じた。が、いつもと違う感覚は明らかで、自分でも眠りに就いたのか、未だ覚醒の途上なのか区別は困難だった。但し目蓋はもう動かない。しかしながら意識は保持、浅い眠りに引き込まれたことは確からしかった。
暗闇が瞼の裏に迫ってくる。苦痛で軽い嘔吐を覚えた。何故か不明ながら闇が次第に晴れてきた。彼女は眼を見開いた。それは夢の中の出来事で、現実の自分は未だ硬く眼を閉ざしていることを自覚。しかし薄闇は彼女の全身を支配、自分の現状を徐々に理解し始めた。
驚くべきことに、上半身を麻縄で緊縛されていた。到底現実とは思われない。いつの間にか縛られているのだった。彼女は悲鳴を上げた。絶叫は全く聞こえない。それだけでも、悪夢の世界であることは瞭然と云えた。
異様な黒煙が、彼女の顔の前を覆った。何とも云えない悪臭が鼻をついた。縛られた儘、静かに身体全体が浮遊してきた。ベッド上50センチ程、浮き上がった。彼女は再び聞こえない悲鳴を上げた。
身体全体が弓状に背の方向に反り返った。弓状硬直、神経症の発作であることを彼女は知っていた。自分がそうなること想像すら出来ない。第一過去に経験がなかった。浮遊する悪夢は睡眠中の性的興奮、彼女は必死に現状を分析しようとした。が、無力だった。
身体全体は更に上昇を続けた。天井近く、すれすれ迄浮遊してきた。次の刹那、部屋のドアがゆっくり開いた。何者だか判る筈もない、顔がのっぺらぼうの怪物が部屋に入ってきた。怪物には長い尻尾があった。彼女は再度絶叫した。相変わらず声は聞こえない。怪物は夢魔だろうかと思った。
「御前の生は終わりを告げた」
怪物の声は嗄れていた。
「御前の生はあと僅かだ」
「どうして、どうして?」
「夜闇が邪悪な信仰に歪められた。私の呪文は過去を巡り、現代に蘇生する」
「私が死ぬと云うの。どうして」
「抵抗分子が己の比重を考えずに遺伝子操作するとき、ベクターが明けの明星の光を掻き消す。故に禅門は在家には開かれない」
秀美は夢は己の記憶の再構成だと、何かの本で読んだ。自分の知らない言葉が、悪夢に出て来る理由が判らなかった。それとも何処かで聞いたのだろうか。不意に世界がグシャリと潰れて歪曲し始めた。
「教えて。何故私の生は終わりを告げたの?」
「佛の松明が、御前を最後の呼吸の前に断ち切れたからだ。透明な悪の猜疑心が御前の無垢な心臓を取り巻いた」
「何故、私は何も悪いことはしていないわ」
「強硬な貞操帯はもう御前の守護神ではなくった。黒い妄想と邪念が悪魔の儀式に参列を招待した所為だ」
「誰に招待されたと云うの。誰か私の知っている人なの?」
「統合はバラバラに引き裂かれた。記憶はもう役に立たない。直観の連鎖にのみ身を委ねよ」
「貴方は一体誰?」
「嘗ては御前の守護神だった。ホロスコープの僅かなずれが貴様と私の絆を断ち切った」
「私はどうすれば良いの?」
「学校に来い」
「学校にですって。こんな時刻に、何故」
「質問は貴様の首を絞めるだけだ。学校に行くんだ」
いつの間にか、身体を縛っていた浅縄は消え、秀美はベッド上に横たわっていた。夢魔の妖しい姿は何処にも無かった。
「学校に、何のために?」
秀美はゆっくり起き上がった。既に覚醒していた。彼女は白いネグリジェ姿の儘、素足で立った。自分は夢遊病なのかと疑惑が走った。確かに頭痛は消えないものの目覚めていた。秀美は其の儘部屋を出た。
家族は寝静まっていた。誰にも悟られず、自宅を出た。彼女は素足の儘で、確かに自身の自覚通り、夢遊病の兆候が濃厚だった。冷たいアスファルト路面の感触を心地良くも感じていた。足取りもふらふらしながら、人影の見えない夜の街を歩いた。目的地迄は徒歩で十数分の距離しかなかった。季節はずれの北風が、彼女の長い髪をしきりに跳ね上げる。近くにコンビニもあったのに、奇跡的に誰にも見咎められず、目的地に到着した。
校門は当然ながら閉まっていた。秀美はよじ登った。ネグリジェの裾がまくれ上がり、瞬時下着が覗いた。彼女は深夜の学校内に降り立った。
目的地は悪夢に見た高校で、校内の何処を目指せば良いか迄は勿論知らない。兎も角も彼女の教室へと続く階段のところ迄来た。傍らに創設者の半身の銅像があり、ブロンズの眼が彼女を凝視しているかに見えた。一陣の北風が秀美の服をはためかせた。周囲を注視してみた。誰の姿も見当たらない。
彼女の背後の階段の影に、黒い革コートの人物が佇んでいた。革手袋の手を翳しながら、後方から秀美を監視。大きなキャリーケースを持っている。
彼女は何も気付かなかった。教室に向かうために階段の一段目を上った。
背後から素早く、革コートの人物が秀美を捕まえた。闇夜の月は黒雲に隠れている。
革手袋の手が後ろから彼女の口を塞いだ。秀美は恐怖にかられ、もがいた。怪人物は闇の中で、大きく口を開いた。鋭い二本の牙が鈍く光る。彼女の喉元に噛み付いた。彼女は悲鳴を上げた。
革手袋の手は大型の注射器を掴んだ。銀色の極太の針を、彼女の喉元に刺した。ゆっくり注射器は処女の血液を吸い上げる。一杯迄深紅の血を採取すると、引き寄せた大型のキャリーケースの内部に排出。排出し終わると、再度注射器を頸に刺した。彼女のくぐもった悲鳴。
1
五月晴れの透明の陽光が降り注ぐ、清新な朝だった。此処暫く五月雨もない、晴天続きの日が果てしなく連続している雰囲気。私立青竜高校の朝も、生徒達の青春そのものの明るさで、少年少女に笑顔が満ち溢れていた。青竜高校は鹿児島市でも指折りの進学校で、生徒達は来る日も来る日も受験勉強の重圧下に耐えていると云う側面もある筈だが、今朝の空気に陰鬱な混濁は紛れ込んでいなかった。
203ルームの仲良し同級生、山村奈津美、玉利花子、丸田真理子の三人は一緒に登校していた。この高校では校門での一礼が義務付けられていた。三人は軽く頭を下げてから、校内に入った。
山村奈津美が三人の裡で最も美しく、167センチの長身でスタイルも良く、男子生徒に人気が高かった。玉利花子も美人だが、何処か酷薄な冷たさがあり、人気は奈津美には及ばなかった。丸田真理子は極めて凡庸な容姿で、秀才型の女の子だ。
「奈津美、おはよう」
見ると、クラスメートの男子生徒、新城武彦だった。
「おはよう、新城さん」
「奈津美、この間の約束、忘れないでくれよ」
「約束って何よ?」
「何だ、忘れたのか、アレだよ、アレ」
奈津美は赤面した。
「止めてくれない。花子も真理子も居る前で」
「いいじゃないか。皆知ってるんだから」
「デートの約束でしょう。新城さん」と玉利が云った。
新城は男性的美貌を歪めて笑った。
「ほら、ちゃんと判ってる。何も恥ずかしがらなくても」
「何よ、止めてよ、玉利さんは兎も角、丸田さんは真面目な人なのよ」
「気にしないでいいわ」丸田が云った。「私だって、これでも理解があるの」
「そうなんだって、じゃ、奈津美、今度の日曜日宜しく」
新城は素早く去って行った。
「何よ、あれ」
奈津美は憤慨した様子だった。
「いいんじゃない。男性はあれ位、ハッキリしてた方が」玉利は云った。「うじうじしてれのよりは遙かに良いのよ。積極的で」
三人は階段の前まで来た。奈津美は何気なく路面に視線を落とした。
「ねえ、これ何かしら?」
三人は一様に路面の一点を注視した。
「何だか気味が悪いわね」
其処には何か赤黒い染みが一面に拡がっていた。
「これは血でしょう」と奈津美。
「誰かが階段から落ちたのかもしれない」
玉利の解釈に三人とも頷いた。
「後で、担任の林先生に報告しましょう」
丸田の提案に皆が納得し、その場を離れて階段を上った。その上に靴箱が多数並んでいる。
奈津美は自分の靴棚の中に、白い紙を見つけた。封筒らしかった。
「ああ、こんなものがある。きっとラブレターね、全く今日は朝から受難続きだわ」
「可愛いと云うか」玉利が云った。「此方はうじうじしたタイプね」
「ああ、矢っ張り田中君だ」
「田中久光かぁ、ルックス的には此方も悪くないわね」
「困るわよ、二人とも日曜日指定してきてるみたい」
奈津美は嘆息した。
「もてる女は辛い。いっその事、二股かけたら」
玉利の軽口を奈津美は無視した。
「どうしようかな。林先生にでも相談しようか」
「どちらとも決められないの。私は奈津美は新城さんに傾いてると思ってたけど」
「私は奥手なの。恋愛するにはまだ早過ぎる」
「早い、へえ」玉利は幾分驚いた。「今時ヴァージンなの?私なんか経験、疾っくに済ましてますけど」
「玉利さんは早熟なの」
「そんなことないでしょう。今時14から16の間に男性経験なかったら可笑しい」
「個人差は激しいでしょ。私は特別じゃない。確かに成人年齢は下がったけど、恋愛迄下がることないんじゃない?」
「そうかな、貴方は考え方旧いんじゃない?若いからこそ二股もかけるのよ。いろんな人と付き合って、本当にいい人を選別しなきゃならない」
「二人には付き合いきれないわ」丸田が云った。「私なんか何処からも声はかかりません」
「丸田さんは真面目過ぎ」
玉利は丸田を少し見下すと、周囲を見回した。
「あっ、林先生だ」
203ルームの担任教師、林武夫が丁度通りかかった。長身、長髪まだ二十代後半の林教諭はハンサムで、女子生徒から人気があった。
「あの、林先生」奈津美が呼び止めた。
「どうかしたかね」
「あの、階段の下一面に血の跡があるんですけど」
「何だって、血の跡。穏やかじゃないな。多分ペンキだろう」
「いいえ、見てみて下さい」
林は急ぎ足で階段を降り立った。
深刻な表情で血痕を凝視した。
「成る程、そうだな、これは血かもしれない。……そうだ、この辺りには防犯カメラが向いている筈だ。調べてみよう」
事務室の一隅、林教諭と教頭の五島健二がパソコン画面を心配げに眺めている。
「あの紅黒い染みは、昨夜私が帰るときには確かにありませんでした。従って、夜中に付いたと思うのです」
事務員の斉藤は沈鬱にパソコン画面を操作しながら云った。
「昨夜は斉藤君が一番遅く迄残っていたのだね」教頭が訊いた。
「ええ」
「すると、誰かが階段から転落したとしても、泥棒か何かだな」
三人は緊張を高めながら、早回しの夜間の防犯ビデオを眺めた。
別の事務員が、林を呼ぶ声が聞こえた。
「林先生、西川秀美の母親から電話が入っています」
「何だね、今、忙しい」
「急用だそうです。先生は西川の担任でしたよね」
「そうだが、仕方ないな、電話を回してくれ」
林は子機を掴んだ。
「はい、林です。どうかなさいました?」
「林先生、何処を捜しましても、秀美がいないんです」
「秀美さんが居ない?学校に来ているのでは」
「いいえ、鞄もセーラー服もその儘、どうやら寝間着姿で出掛けたらしいんです」
「それはただ事ではありませんね。友達の家とかは」
「居りません。考えつくだけのお友達の家に電話しましたの」
「そうですか、それはお困りでしょう」
五島教頭が林の片腕を引っ張った。
「林君、モニターを見たまえ」
ビデオに人影が映り、通常速度に戻した。ネグリジェ姿の少女だった。
「ああ、これは確かに西川秀美です」
林が驚いて云った。
「西川か、時刻は何時になっている?」
「夜中の2時5分です」
教頭の問いに事務員が答えた。
林は再び電話口に戻った。
「お母さん、秀美さんは学校内に来ていました」
「ええ、何ですって、一体いつ」
「夜中の2時過ぎです、あっ、……」
見る間に、革コートの人物が現れて、背後から秀美を羽交い締めにした。
そして……。
ビデオの余りの残虐な内容に、三人は一様に絶句した。
「これは、警察に通報しなくては」
教頭が漸く口を開いた。
まだがなっている電話を林は切った。訃報を伝えるのは警察の仕事に違いなかった。
始業のベルが203ルームの教室に鳴り響いた。各々自分勝手な場所に屯していた生徒達は席に着いた。担任の林教諭が入ってきた。極めて陰鬱な表情で現れた。
「あれ、どうかなさったんですか、先生」
林は教壇に上がった。
「皆さんに大変残念なお知らせがあります」
「何ですか、先生」
「何、先生?」
生徒達は奇妙な予感に怯えていた。
「実は、西川秀美さんが昨夜亡くなられました。大変悲しい出来事があって……」
教室は瞬時静まり返った。
「どうして、どうして秀美さんは亡くなったの?」新城が尋ねた。
「事件があったのです。昨夜学校で」
「そう云えば、パトカーが来ていた」
不意に林は遙か前方を凝視した。一番後方の掃除用具入れの、取っ手の辺りに、赤黒い染みを発見したのだ。
林は掃除用具入れに駆け寄った。
「まさか」
林は思い切って、扉を開いた。
と、西川秀美の遺体が逆様に落ちてきた。全身蒼白で、髪を振り乱し、死相は恐怖に歪んでいる。
「こんな莫迦な」
林は呆然自失、震え上がった。
教室のあちこちで悲鳴が上がった。
「警察に来て貰わなくては。皆、此処を動くな」
慌ただしくパトカーが何台も来た。安田警部補は自分のプリウスで現場に急行した。報道関係者が校門に群れを為している。
「安田警部補、事件はどのような状況ですか?」
フラッシュが連続で光った。
「私も今来たばかりだ。知らんよ」
安田は手袋を付けながら現場に駆け寄った。先に来ていた新村刑事が近寄ってきた。
「安田さん、生徒達は帰宅させますか」
「そうだな、一時帰らせよう。教師の護衛を途中迄付けてな」
「但し被害者にボーイフレンドが居るということだったな」
「ええ、山田洋介という生徒です」
「彼には事情聴取しよう」
安田はいつになく疲労感を覚えていた。訊くと吸血鬼の為業だと云う、そんな事件は長い警察官稼業の裡で初めてであった。以前同僚と、猟奇殺人事件は都会と田舎、何れに多いかと云う問答を交わしたことがある。人心が荒廃しているから大都市のものだと云う彼の意見に対して、同僚は米国では圧倒的多数が田舎町で起きると主張、そういうものかなと思った。
防犯ビデオに犯行の総てが映っていると云う。また屍体は教室から発見されているらしい。生徒を早く帰さなくてはならないので、被害者の男友達に会う方を優先した。
山田洋介は所謂イケメンで、如何にも女生徒にもてそうなタイプだった。安田には優男に見えた。この年齢からジゴロタイプは現れるものかなと思わせた。
「山田洋介君だね」
学校の事務室が当面の警察の拠点として使用された。
「西川さんに最後に会ったのは何時かね」
「昨日学校内で会ったのが最後です。それから」
「それから?」
「ラインしました」
「電話、メール?」
「両方です。秀美は僕が彼女から離れるんじゃないかと心配してたから、慰めるのに一苦労でした」
「と云うと、君は他に彼女がいるのだね」
安田の意地悪な質問に、山田はしどろもどろになった。
「いえ、あの、そんなことはないです」
「まあ、いい。秀美さんの携帯は調べる。どんなメールの会話をしたかは判る。で、君は昨夜2時頃家にいたかね」
「はい、何処にも出てません」
「それを家族が証明してくれる?」
「はい」
「秀美さんは誰かに恨まれていたかね」
「いいえ、ないと思います」
「例えば君のもう一人の彼女は」
「そんなことが、殺人事件にまで発展するなんてあり得ません」
「そうだろうな、一応彼女の名前を訊いておこう」
「玉利花子です」
「じゃ、もういいよ、有難う」
山田洋介が事務室を出ると、安田達は防犯ビデオのディスプレイを見た。
一通り残酷映像を確認すると、安田と新村は再度再生ボタンを押した。
「この布地は何だろう、厚手のストッキングかな」安田が問うた。
「そうですね、それで覆面をして、黒いサングラスを掛けていて、犯人の容貌は確認出来ません」
「うむ、それにしても犯人は何故血液を抜いたのだろう。吸血鬼を気取った訳か」
「そうでしょうね、まさか血を呑む訳でもないでしょうに」
「いや、案外呑むかもしれんよ。この犯人はマニアックだ」
「身長は175近辺でしょうか。かなりの確率で男ですね」
「うむ、ところで人の血液量はどの位だ」安田が訊いた。
「そうですね、私は鑑識課員ではないですが、体重1Kgに対して約80mLというところですか」
「するとどうなる。この少女の体重45Kgだとして」
「3.5Lという辺りですか」
「案外少ないな。犯人のキャリーバッグは内部にビニールで目張りしてあるな恐らく」
「血液が零れないようにですね」
安田は深く嘆息した。
「全く厄介な事件だ」
生徒達は教師の引率で集団下校していた。皆戦々恐々心中穏やかではなかった。吸血鬼がまだ何処かに潜んでいるかもしれない。
山村奈津美は背後から声をかけられて、振り向いた。新城武彦だった。
「何よ、新城さん」
「今度の日曜日宜しく」
「こんな非常時にデートに誘うなんて、無神経過ぎる」
新城は頭を下げた。
「そうだよな、……それじゃ、皆、これからウチに集まらないか?」
「新城さん宅に?何するの」
「降霊会だ」
新城は真顔で云った。
「降霊会?」
「そうだ、秀美さんの霊を呼び出すんだ」
「それ、孤狗狸さんのこと?」
玉利が訊いた。
「そう、こっくりさん。それなら抵抗ないだろう。……奈津美、玉利、丸田さん、田中もどうだ?」
「何だか面白そうね、乗るわ」
玉利花子は乗り気だった。
「皆も行こうよ」
五人で新城宅に集まることに決まった。
西田のマンションの5階が新城宅だった。其処の客間に、新城、奈津美、玉利、田中、丸田の男女五人が集まった。丸田は恐がって、参加を断り、見学を希望した。
丸テーブルの上に、五十音を書いた紙を載せて、テーブル周囲の椅子に四人が腰を下ろした。
硬貨を乗せて、皆が人差し指を当てた。
「孤狗狸さん、孤狗狸さん、」奈津美が唱えた。「どうかこの部屋においで下さい」
静寂の中、四人の呼吸は次第に荒くなる。
「秀美、どうか出て来て。私達に総てを告げて」
四人の指先に力が入る。全員が極度に緊張していた。丸田は息を呑んで、傍らの椅子に着いている。窓のカーテンが僅かにはためいた。何処かで、パンとラップが鳴った。
「秀美、教えて。一体何があったの?」
驚くべきことに、テーブル上の硬貨が独りでにゆっくり動き始めた。
「き、最初はき、ね」
更に硬貨は滑る。
ゆ。う。け。つ。き。
「吸血鬼、それから?」
ま。だ。こ。ろ。し。は。つ。づ。く。
五人は戦慄を禁じ得なかった。
「秀美、教えて」奈津美が問いかけた。「吸血鬼は誰なの?」
あ。く。ま。
2
水族館口の電停を下りると、右手に直ぐ現代的建築の県民交流センターがある。快晴の日曜日午後、奈津美は新城や田中のデートの誘いを断り、玉利花子と二人で、公開シンポジウム、教育と発達心理学の見学者に来た。青竜高校の校長、大倉利三が参加している為だ。
二人は何気なく、途上の中古パソコン店を覗いた。パソコンのディスプレイはニュースを映していた。
「鹿児島で起きた、吸血鬼事件は依然謎に包まれています。但し県警鑑識課によれば、被害者の頸の刺し傷から、微量の鉄の粉が検出。吸血鬼の牙に噛まれたのではないことが判明しています。恐らく犯人は鉄製の牙を歯にはめて、被害者を噛んだと見られます……」
「怖いわね」奈津美が云った。
「犯人は人間なのね、矢張り」玉利が呟いた。
「人間じゃないわ。あんなことするのは悪魔よ。秀美の死に顔見た?」
「掃除用具入れの中で逆様になってた。酷たらしくて、一生忘れられないわ」
「そうね」
二人は交流センターに向かった。
シンポジウムは専門的内容で、二人にはハイレベル過ぎた。
漸く大倉校長が演台に立った。銀髪の美しい紳士だ。
「先ず演目に入らせて頂く前に、ひと言良いですかな。……先日、我が校で誠に不幸な事件が起きました。亡くなられました生徒のために、この場を借りて、1分間の黙祷を捧げたいと思います」
会場の時計は午後2時15分を指している。
同じ2時15分、谷山のコンビニの裏手、ごみ置き場の傍らで、青竜高校の205ルーム、須藤恵子が、吸血鬼の魔手に捕らえられていた。吸血鬼が彼女の喉を噛んだ。
「本題に入ります。死の願望というのは、ホメオスタシスによるシステム破壊にあります。と申し上げて、退行に繋がるネゲントロピーに屈してはならない…」
吸血鬼は、倒れ込んだ恵子の頸に注射器を刺した。彼女の血液を採血。
「死の願望を回避するには、常に新しい情報の交換を行う必要性があります」
恵子は血液を抜かれた蒼白の顔で、路面に斃れた。彼女の頭上には防犯カメラが向いていたが、誰一人モニターしていなかった。
翌日、奈津美は余程学校を休もうかと考えた。テレビ等で第二の殺人事件を大々的に報じていた。今回は別のクラスの少女が被害者だったものの、渦巻くパニックは半端どはなかった。実際学校側は休校を検討したらしいが、結局再度教師の引率付きでの登校になった。
報道関係者が校門前に多数待機しており、非常に五月蠅かった。奈津美もマイクを向けられた。駆けて逃げた。ニュースヴァリューが有るのは判るが、彼らは余りにも好奇心剥き出しだ。
奈津美が教室に入ると、新城が話しかけてきた。
「奈津美、昨日どうして?」
「そんなこと云ってる場合じゃないでしょう」
「それは判るけれども、俺、須藤恵子って娘知ってたから」
「それだったら」
「それとこれは違うんだよ。俺にとってみれば奈津美との関係の方が大事なんだ」
その時、田中が二人の間に割り入ってきた。同時に二人は田中を見た。
「田中君、どうしたの?」
「何も、唯痴話喧嘩を見ていられなくて」
「何だ、田中、御前には関係ないだろう」
新城は憤慨して云った。
「いや、新城、俺も関係ある」
「何故?」
「俺も昨日、奈津美と逢う約束をしたからだ」
「何だって、田中もか。それは初耳だ」
「田中君、違うでしょう」奈津美も怒りを露わにした。「貴方が勝手に手紙で云ってきただけ。私は何とも返事してないでしょう」
「そうか、本当か、田中」
「ああ」
「それなら、約束じゃないな。俺はちゃんと奈津美と約束したんだ」
奈津美は首を振った。
「新城さん、貴方のも違うと思う。私は返事してないでしょう」
新城は口ごもった。
「まあ、それはそうかも」
今度は、玉利が三人に割って入った。
「やめてよ、三人とも。朝から痴話喧嘩なんか」
三人とも各々溜め息をついた。
「奈津美、ちょっといいから」玉利が奈津美の手を引っ張った。「此方に来て、話がある」
「何よ?」
玉利は深刻な面持ちだった。
「本当に三人とも、この間の降霊会を忘れたの。大変じゃない?」
「確かに大変よね。これからも悪魔が殺しを続けると云うのだから」
「そうなの、だから」玉利は提案した。「霊能者のところに行きましょう」
「霊媒を知っているの」
「独り知ってる」
男二人も同意した。
「俺達も一緒に行くよ」
四人は意思を確認し合った。
大江仙三は外見的には極く普通の初老男性だった。それもその筈、トヨタフォークリフトの斡旋が職業だった。但し裏の稼業として神職の資格を持っていた。霊視能力があると云うことで、その筋では著名な男だ。
次の土曜日の午後、奈津美、玉利、新城、田中の四人は高麗町の大江宅を訪れた。
「私は格別徳の高い霊能者ではないんですよ。唯、神眼を持っていると云う自信はあります」
「今、世間を騒がせている、吸血鬼事件はご存知ですよね」
大江は頷いた。
「ニュース等で見知っています」
「この事件を霊視して頂きたいんです」
奈津美は頼み込んだ。
「弱りましたな。どんな御事情で?」
「私達、あの青竜高校の生徒なんです。何とかして、これ以上の悲劇を阻止したいんでせ」
大江は納得した様子だ。
「そうですか。それでは祝詞を上げてみましょう」
大江は準備した。神棚に御神酒、周囲に大量の塩をまいた。彼は祝詞を挙げる。厳粛な空気に包まれた。
「見えてきました」彼は云った。「異様な迄の甚だしい怨念が見える。この事件の並外れた残虐性はその所為だ。甚だしい憎悪が根底にある」
大江は更に霊視を続けた。
「動機は復讐ですな。神眼に映る。……白いベッド、横たわっている少女……」
「それは誰なのですか」奈津美が訊く。
「いや、いやあ、そこまでは判りません。兎に角この病弱な少女の復讐です」
大江は小刻みに震えた。
「恐ろしい、凄まじい怨念……」
彼はトランス状態に入っていた。
「水を、水をくださらんか」
玉利がコップに水を持ってきた。
彼は飲み干した。
「兎に角、私は事件には関わりたくありませんな。危険過ぎる」
「いいえ、有難うございました」
奈津美は頭を下げた。
新城、田中の男二人は慄然と沈黙した儘だった。
その夜、大江は独りだけの晩酌をしていた。妻は三年前に亡くなり、一人息子は東京で商社に勤務していた。彼は真正孤独だった。昼間の暫しのトランス状態がまだ尾を引いていた。酒には酔えなかった。
不意に、彼の鋭敏な感覚が何かを捉えた。彼の背に戦慄が走った。
彼は大急ぎで、床の間の日本刀を取った。
「何者だ。返り討ちにしてやる」
辺りを、沈黙が支配している。
大江は白刃を抜き放った。
だが彼の足元は震えていた。
敵が何処にいるか判らない。
刀を上段に構えた。
心臓の鼓動が速まる。
次の刹那、革手袋の手が背後から、ハンマーを振り下ろした。
吸血鬼は、斃れた大江の頸に噛みついた。次の瞬間、大型注射器を頸に刺した。
翌朝のテレビニュースを見た、奈津美達の驚愕は半端ではなかった。初めて極めて身近に殺人者の影を感じた。次はわが身かと、ゾーッと総毛立った。
「つまり、大江さんは核心に近づいたのね。それで消された」
「でもどうしてそれを知ったの?吸血鬼は千里眼を持っているの」
玉利が非現実的な千里眼を持ち出したのも当然だった。
「空を飛ぶ吸血鬼のイメージ。空から総てを監視している」
「奈津美、冗談半分はやめて。犯人は牙を持っていないという報道よ。犯人は人間なのよ。それに」
「何?」
「私達の所為で人が一人亡くなられた。私達が霊視を頼まなかったら、あの人は死なずに済んだのに」
「そうね、私達の責任よね」
「どうする、これから?」
「そうね、私立探偵にでも依頼してみましょうか」
「それも一つの策かもね。でも私達、お金はない」
「秀美さんのお父さんに頼んでみる?探偵に依頼してくださるように」
「でも探偵と云っても、誰が良いかしら」
3
狭い事務所内には大音量でロックミュージックが鳴り響いていた。ホワイトスネイクの本国での三枚組ベストアルバムを朝から、亀田は聴き込んでいる。亀田は私立探偵の看板を、探偵業法通り、県警に届けを出して、掲げていたが、全く鳴かず飛ばずで、仕事にあぶれていた。結局毎日ロックのCDを聴いて過ごした。このアルバムはスネイクの米国でのヒット曲が余り収録されておらず、隠れた名曲を多数選んでいる点、彼の趣味に合っていた。
昼食を何処で食べるか考えた。このところ牛丼チェーン店が続いており、飽きるとハンバーガーという食生活、最近仕事もなく、明らかに肥満の兆候が表れた。
ディスク3に変えようとした時、スマホの着信音が鳴った。久しぶりの仕事の依頼かと思い、携帯を取った。
「はい、亀田探偵事務所」
聞こえてきたには、年配の女性の声だった。
「すみません、私、西川と申します」
「西川様、仕事のご依頼でしょうか」
「はい…」
「どういった案件でしょう」
「あの、わたくし、西川秀美の母です」
「と仰有いますと。そのお嬢さんの名前に聞き覚えはありませんが」
相手は少し当惑した様子だった。
「あの、今、世間を騒がせている事件の、最初の犠牲者の母です」
亀田は素早く記憶を辿る。
「事件と仰有いますと、あの吸血鬼事件?」
「はい」
「それは本当ですか?」
「ええ」
亀田は驚嘆した。
「お間違えではありませんか。此処は警察ではない」
「承知致しております」
「驚きましたな。私立探偵に殺人事件の調査を依頼なさるお積もりですか」
「はい、駄目でしょうか」
「駄目ではありませんが、私はその種の依頼は聞いたことがありません。警察の捜査進捗を待たれたら如何ですか。此方は捜査網、鑑識なし。利点と云えば、捜査令状なしで自由に動けるくらいのものです」
「それで構いません。心の支えが欲しいんです。お願いできませんか」
亀田は深呼吸した。
「判りました。純粋にビジネスならお受けします。私は警察とパイプがない訳でもないので」
相手は安心した様子だった。
「宜しく御願い致します。これから伺います」
「お待ち致しております」
亀田は電話を切ると、書類作成の準備をした。確かに荷が重いが、久しぶりの仕事だった。
西川洋子は同伴者と一緒だった。奈津美と玉利である。三人入ると事務所内は一杯になった。
「秀美のクラスメートの方々です。山村奈津美さん、玉利花子さん」
「宜しく御願い致します」奈津美が云った。「私達、秀美さんの友達というだけでなく、直近の霊媒師の事件の関係者なんです」
「色々お話を伺える訳ですね。同席なさって結構です」
洋子は秀美の事件の顛末を掻い摘まんで話した。奈津美達は大江に霊視を頼んだ経緯を伝えた。
亀田は腕組みして、神妙に耳を傾けた。
「秀美さんはネグリジェ姿の儘、殆ど夢遊病のように出て行かれたんですね」
「はい」洋子は頷いた。
「ううん、断定は出来ませんが、催眠術の可能性はありますかね」
「催眠術ですか」
「思いつきです。唯それだと、危険を無視して夜中出て行かれた、説明にはなります」
「そう云えば、あの夜、秀美は何だか熱に浮かされたような様子でした」
「犯人のコントロール下にあったのかもしれませんね」
「そういうことだったんですか」
「吸血鬼の呪いとでも思われました」
「はい」
奈津美が意見を挟んだ。
「この世には超自然の現象もありますわ」
「認めます」亀田は同意した。「霊媒師が自分の霊視が核心をついていたから殺された、と云う解釈には賛成です」
「事件の動機は甚だしい憎悪、怨念だと云っていました」
「それは正しいかもしれません」
「白いベッドと少女が見えるとも」
亀田は首を傾げた。
「さて、そこまで当たっているのか、私には判らない」
「降霊会で、悪魔が殺しを続ける、と出た」
「降霊会とは、こっくりさんですね。参加者は?」
「私と玉利、新城武彦、田中久光」
「成る程」亀田はメモした。
「この中の誰かが意図的に硬貨を動かしたと、考えてらっしゃるのね」奈津美が云った。
亀田は無言で頷いた。
「ひどいわ」
「お嬢さん、それが現実です」
「だとすると誰なの」
「それを調べます。……この犯人は恐らく見た目は普通の人間だが、あるとき殺人犯に豹変する二重人格者でしょう」
洋子は金離れが良かった。亀田は久々潤った。
安田警部補は自宅のソファーの上で、何時の間にか寝入っていた。子供時代の夢を見ていた。まだ若い父が何か怒鳴る声が耳をつんざいた。それは音量最大にしてあるスマホの着信音だった。
安田は半睡で、手をテーブルに伸ばした。
「何だ」
「夜分、済みません、警部補、また例の吸血鬼です」
「そうか、直ぐ行く。場所は」
「唐湊霊園の近くです。納骨堂の田上台側」
「墓地の中か」
「中ではありません。近くです」
「判った」
昼間の格好の儘、寝ていた。急いで上着を着た。拳銃を確認した。
夜闇の中、プリウスが走る。何とかして、吸血鬼を止めなくてはならない。安田は相当に焦りを募らせていた。
現場は直ぐに判った。彼は車を降りた。
「安田さん、此方です」新村が云った。
急勾配の坂道の路面に、少女が倒れていた。安田は懐中電灯を遺体に当てた。
被害者の右手付近に血な染みが見えた。
「何だか、文字のように見えるな」
「ええ」
「H T…血文字は、H Tだな」
安田は少女の右手を慎重に掴んだ。
手の中に何か薄い布地を掴んでいる。
「これは、ストッキングだな」
「そのようです」
「犯人の覆面を破り取った。すると被害者は犯人の顔を見た」
「そして血文字を書いたのでしょう」
「何だろう。イニシャルかな」
「H T ですか。そんな名前は五万といますね」
「厄介だな」
安田と新村は暫し沈黙した。
ドンキホーテ他スーパー等が次々と建てられ、旧谷山市に近い、郊外の宇宿は随分と発展した。港もあり、豪華客船も停泊し、外国人とすれ違うことも珍しくない。
そんな田舎街の一隅に、カラオケスナック、ラヴラヴはあった。しかし平日で、客も閑散とした店内に、亀田は入った。夜の9時過ぎのことだった。
「いらっしゃいませ」
「ビールを貰おうか」
「はい」
亀田はおしぼりで手を拭きながら、奥な唯一人の客を見た。演歌を歌う声が酷く掠れていた。間もなく客は帰るだろうと思われた。
ビールが来ると、マダムにマイクを渡された。亀田は困惑しながら、ビールをちびちび呑んだ。歌を容易に断れなかった。Is this love を仕方なく注文した。
亀田はラブソングを小さな声で歌った。
その間に客は帰った。
深い暗闇と静寂が不意に周囲を支配した。彼女は睡眠に入っていけるものと信じた。が、いつもと違う感覚は明らかで、自分でも眠りに就いたのか、未だ覚醒の途上なのか区別は困難だった。但し目蓋はもう動かない。しかしながら意識は保持、浅い眠りに引き込まれたことは確からしかった。
暗闇が瞼の裏に迫ってくる。苦痛で軽い嘔吐を覚えた。何故か不明ながら闇が次第に晴れてきた。彼女は眼を見開いた。それは夢の中の出来事で、現実の自分は未だ硬く眼を閉ざしていることを自覚。しかし薄闇は彼女の全身を支配、自分の現状を徐々に理解し始めた。
驚くべきことに、上半身を麻縄で緊縛されていた。到底現実とは思われない。いつの間にか縛られているのだった。彼女は悲鳴を上げた。絶叫は全く聞こえない。それだけでも、悪夢の世界であることは瞭然と云えた。
異様な黒煙が、彼女の顔の前を覆った。何とも云えない悪臭が鼻をついた。縛られた儘、静かに身体全体が浮遊してきた。ベッド上50センチ程、浮き上がった。彼女は再び聞こえない悲鳴を上げた。
身体全体が弓状に背の方向に反り返った。弓状硬直、神経症の発作であることを彼女は知っていた。自分がそうなること想像すら出来ない。第一過去に経験がなかった。浮遊する悪夢は睡眠中の性的興奮、彼女は必死に現状を分析しようとした。が、無力だった。
身体全体は更に上昇を続けた。天井近く、すれすれ迄浮遊してきた。次の刹那、部屋のドアがゆっくり開いた。何者だか判る筈もない、顔がのっぺらぼうの怪物が部屋に入ってきた。怪物には長い尻尾があった。彼女は再度絶叫した。相変わらず声は聞こえない。怪物は夢魔だろうかと思った。
「御前の生は終わりを告げた」
怪物の声は嗄れていた。
「御前の生はあと僅かだ」
「どうして、どうして?」
「夜闇が邪悪な信仰に歪められた。私の呪文は過去を巡り、現代に蘇生する」
「私が死ぬと云うの。どうして」
「抵抗分子が己の比重を考えずに遺伝子操作するとき、ベクターが明けの明星の光を掻き消す。故に禅門は在家には開かれない」
秀美は夢は己の記憶の再構成だと、何かの本で読んだ。自分の知らない言葉が、悪夢に出て来る理由が判らなかった。それとも何処かで聞いたのだろうか。不意に世界がグシャリと潰れて歪曲し始めた。
「教えて。何故私の生は終わりを告げたの?」
「佛の松明が、御前を最後の呼吸の前に断ち切れたからだ。透明な悪の猜疑心が御前の無垢な心臓を取り巻いた」
「何故、私は何も悪いことはしていないわ」
「強硬な貞操帯はもう御前の守護神ではなくった。黒い妄想と邪念が悪魔の儀式に参列を招待した所為だ」
「誰に招待されたと云うの。誰か私の知っている人なの?」
「統合はバラバラに引き裂かれた。記憶はもう役に立たない。直観の連鎖にのみ身を委ねよ」
「貴方は一体誰?」
「嘗ては御前の守護神だった。ホロスコープの僅かなずれが貴様と私の絆を断ち切った」
「私はどうすれば良いの?」
「学校に来い」
「学校にですって。こんな時刻に、何故」
「質問は貴様の首を絞めるだけだ。学校に行くんだ」
いつの間にか、身体を縛っていた浅縄は消え、秀美はベッド上に横たわっていた。夢魔の妖しい姿は何処にも無かった。
「学校に、何のために?」
秀美はゆっくり起き上がった。既に覚醒していた。彼女は白いネグリジェ姿の儘、素足で立った。自分は夢遊病なのかと疑惑が走った。確かに頭痛は消えないものの目覚めていた。秀美は其の儘部屋を出た。
家族は寝静まっていた。誰にも悟られず、自宅を出た。彼女は素足の儘で、確かに自身の自覚通り、夢遊病の兆候が濃厚だった。冷たいアスファルト路面の感触を心地良くも感じていた。足取りもふらふらしながら、人影の見えない夜の街を歩いた。目的地迄は徒歩で十数分の距離しかなかった。季節はずれの北風が、彼女の長い髪をしきりに跳ね上げる。近くにコンビニもあったのに、奇跡的に誰にも見咎められず、目的地に到着した。
校門は当然ながら閉まっていた。秀美はよじ登った。ネグリジェの裾がまくれ上がり、瞬時下着が覗いた。彼女は深夜の学校内に降り立った。
目的地は悪夢に見た高校で、校内の何処を目指せば良いか迄は勿論知らない。兎も角も彼女の教室へと続く階段のところ迄来た。傍らに創設者の半身の銅像があり、ブロンズの眼が彼女を凝視しているかに見えた。一陣の北風が秀美の服をはためかせた。周囲を注視してみた。誰の姿も見当たらない。
彼女の背後の階段の影に、黒い革コートの人物が佇んでいた。革手袋の手を翳しながら、後方から秀美を監視。大きなキャリーケースを持っている。
彼女は何も気付かなかった。教室に向かうために階段の一段目を上った。
背後から素早く、革コートの人物が秀美を捕まえた。闇夜の月は黒雲に隠れている。
革手袋の手が後ろから彼女の口を塞いだ。秀美は恐怖にかられ、もがいた。怪人物は闇の中で、大きく口を開いた。鋭い二本の牙が鈍く光る。彼女の喉元に噛み付いた。彼女は悲鳴を上げた。
革手袋の手は大型の注射器を掴んだ。銀色の極太の針を、彼女の喉元に刺した。ゆっくり注射器は処女の血液を吸い上げる。一杯迄深紅の血を採取すると、引き寄せた大型のキャリーケースの内部に排出。排出し終わると、再度注射器を頸に刺した。彼女のくぐもった悲鳴。
1
五月晴れの透明の陽光が降り注ぐ、清新な朝だった。此処暫く五月雨もない、晴天続きの日が果てしなく連続している雰囲気。私立青竜高校の朝も、生徒達の青春そのものの明るさで、少年少女に笑顔が満ち溢れていた。青竜高校は鹿児島市でも指折りの進学校で、生徒達は来る日も来る日も受験勉強の重圧下に耐えていると云う側面もある筈だが、今朝の空気に陰鬱な混濁は紛れ込んでいなかった。
203ルームの仲良し同級生、山村奈津美、玉利花子、丸田真理子の三人は一緒に登校していた。この高校では校門での一礼が義務付けられていた。三人は軽く頭を下げてから、校内に入った。
山村奈津美が三人の裡で最も美しく、167センチの長身でスタイルも良く、男子生徒に人気が高かった。玉利花子も美人だが、何処か酷薄な冷たさがあり、人気は奈津美には及ばなかった。丸田真理子は極めて凡庸な容姿で、秀才型の女の子だ。
「奈津美、おはよう」
見ると、クラスメートの男子生徒、新城武彦だった。
「おはよう、新城さん」
「奈津美、この間の約束、忘れないでくれよ」
「約束って何よ?」
「何だ、忘れたのか、アレだよ、アレ」
奈津美は赤面した。
「止めてくれない。花子も真理子も居る前で」
「いいじゃないか。皆知ってるんだから」
「デートの約束でしょう。新城さん」と玉利が云った。
新城は男性的美貌を歪めて笑った。
「ほら、ちゃんと判ってる。何も恥ずかしがらなくても」
「何よ、止めてよ、玉利さんは兎も角、丸田さんは真面目な人なのよ」
「気にしないでいいわ」丸田が云った。「私だって、これでも理解があるの」
「そうなんだって、じゃ、奈津美、今度の日曜日宜しく」
新城は素早く去って行った。
「何よ、あれ」
奈津美は憤慨した様子だった。
「いいんじゃない。男性はあれ位、ハッキリしてた方が」玉利は云った。「うじうじしてれのよりは遙かに良いのよ。積極的で」
三人は階段の前まで来た。奈津美は何気なく路面に視線を落とした。
「ねえ、これ何かしら?」
三人は一様に路面の一点を注視した。
「何だか気味が悪いわね」
其処には何か赤黒い染みが一面に拡がっていた。
「これは血でしょう」と奈津美。
「誰かが階段から落ちたのかもしれない」
玉利の解釈に三人とも頷いた。
「後で、担任の林先生に報告しましょう」
丸田の提案に皆が納得し、その場を離れて階段を上った。その上に靴箱が多数並んでいる。
奈津美は自分の靴棚の中に、白い紙を見つけた。封筒らしかった。
「ああ、こんなものがある。きっとラブレターね、全く今日は朝から受難続きだわ」
「可愛いと云うか」玉利が云った。「此方はうじうじしたタイプね」
「ああ、矢っ張り田中君だ」
「田中久光かぁ、ルックス的には此方も悪くないわね」
「困るわよ、二人とも日曜日指定してきてるみたい」
奈津美は嘆息した。
「もてる女は辛い。いっその事、二股かけたら」
玉利の軽口を奈津美は無視した。
「どうしようかな。林先生にでも相談しようか」
「どちらとも決められないの。私は奈津美は新城さんに傾いてると思ってたけど」
「私は奥手なの。恋愛するにはまだ早過ぎる」
「早い、へえ」玉利は幾分驚いた。「今時ヴァージンなの?私なんか経験、疾っくに済ましてますけど」
「玉利さんは早熟なの」
「そんなことないでしょう。今時14から16の間に男性経験なかったら可笑しい」
「個人差は激しいでしょ。私は特別じゃない。確かに成人年齢は下がったけど、恋愛迄下がることないんじゃない?」
「そうかな、貴方は考え方旧いんじゃない?若いからこそ二股もかけるのよ。いろんな人と付き合って、本当にいい人を選別しなきゃならない」
「二人には付き合いきれないわ」丸田が云った。「私なんか何処からも声はかかりません」
「丸田さんは真面目過ぎ」
玉利は丸田を少し見下すと、周囲を見回した。
「あっ、林先生だ」
203ルームの担任教師、林武夫が丁度通りかかった。長身、長髪まだ二十代後半の林教諭はハンサムで、女子生徒から人気があった。
「あの、林先生」奈津美が呼び止めた。
「どうかしたかね」
「あの、階段の下一面に血の跡があるんですけど」
「何だって、血の跡。穏やかじゃないな。多分ペンキだろう」
「いいえ、見てみて下さい」
林は急ぎ足で階段を降り立った。
深刻な表情で血痕を凝視した。
「成る程、そうだな、これは血かもしれない。……そうだ、この辺りには防犯カメラが向いている筈だ。調べてみよう」
事務室の一隅、林教諭と教頭の五島健二がパソコン画面を心配げに眺めている。
「あの紅黒い染みは、昨夜私が帰るときには確かにありませんでした。従って、夜中に付いたと思うのです」
事務員の斉藤は沈鬱にパソコン画面を操作しながら云った。
「昨夜は斉藤君が一番遅く迄残っていたのだね」教頭が訊いた。
「ええ」
「すると、誰かが階段から転落したとしても、泥棒か何かだな」
三人は緊張を高めながら、早回しの夜間の防犯ビデオを眺めた。
別の事務員が、林を呼ぶ声が聞こえた。
「林先生、西川秀美の母親から電話が入っています」
「何だね、今、忙しい」
「急用だそうです。先生は西川の担任でしたよね」
「そうだが、仕方ないな、電話を回してくれ」
林は子機を掴んだ。
「はい、林です。どうかなさいました?」
「林先生、何処を捜しましても、秀美がいないんです」
「秀美さんが居ない?学校に来ているのでは」
「いいえ、鞄もセーラー服もその儘、どうやら寝間着姿で出掛けたらしいんです」
「それはただ事ではありませんね。友達の家とかは」
「居りません。考えつくだけのお友達の家に電話しましたの」
「そうですか、それはお困りでしょう」
五島教頭が林の片腕を引っ張った。
「林君、モニターを見たまえ」
ビデオに人影が映り、通常速度に戻した。ネグリジェ姿の少女だった。
「ああ、これは確かに西川秀美です」
林が驚いて云った。
「西川か、時刻は何時になっている?」
「夜中の2時5分です」
教頭の問いに事務員が答えた。
林は再び電話口に戻った。
「お母さん、秀美さんは学校内に来ていました」
「ええ、何ですって、一体いつ」
「夜中の2時過ぎです、あっ、……」
見る間に、革コートの人物が現れて、背後から秀美を羽交い締めにした。
そして……。
ビデオの余りの残虐な内容に、三人は一様に絶句した。
「これは、警察に通報しなくては」
教頭が漸く口を開いた。
まだがなっている電話を林は切った。訃報を伝えるのは警察の仕事に違いなかった。
始業のベルが203ルームの教室に鳴り響いた。各々自分勝手な場所に屯していた生徒達は席に着いた。担任の林教諭が入ってきた。極めて陰鬱な表情で現れた。
「あれ、どうかなさったんですか、先生」
林は教壇に上がった。
「皆さんに大変残念なお知らせがあります」
「何ですか、先生」
「何、先生?」
生徒達は奇妙な予感に怯えていた。
「実は、西川秀美さんが昨夜亡くなられました。大変悲しい出来事があって……」
教室は瞬時静まり返った。
「どうして、どうして秀美さんは亡くなったの?」新城が尋ねた。
「事件があったのです。昨夜学校で」
「そう云えば、パトカーが来ていた」
不意に林は遙か前方を凝視した。一番後方の掃除用具入れの、取っ手の辺りに、赤黒い染みを発見したのだ。
林は掃除用具入れに駆け寄った。
「まさか」
林は思い切って、扉を開いた。
と、西川秀美の遺体が逆様に落ちてきた。全身蒼白で、髪を振り乱し、死相は恐怖に歪んでいる。
「こんな莫迦な」
林は呆然自失、震え上がった。
教室のあちこちで悲鳴が上がった。
「警察に来て貰わなくては。皆、此処を動くな」
慌ただしくパトカーが何台も来た。安田警部補は自分のプリウスで現場に急行した。報道関係者が校門に群れを為している。
「安田警部補、事件はどのような状況ですか?」
フラッシュが連続で光った。
「私も今来たばかりだ。知らんよ」
安田は手袋を付けながら現場に駆け寄った。先に来ていた新村刑事が近寄ってきた。
「安田さん、生徒達は帰宅させますか」
「そうだな、一時帰らせよう。教師の護衛を途中迄付けてな」
「但し被害者にボーイフレンドが居るということだったな」
「ええ、山田洋介という生徒です」
「彼には事情聴取しよう」
安田はいつになく疲労感を覚えていた。訊くと吸血鬼の為業だと云う、そんな事件は長い警察官稼業の裡で初めてであった。以前同僚と、猟奇殺人事件は都会と田舎、何れに多いかと云う問答を交わしたことがある。人心が荒廃しているから大都市のものだと云う彼の意見に対して、同僚は米国では圧倒的多数が田舎町で起きると主張、そういうものかなと思った。
防犯ビデオに犯行の総てが映っていると云う。また屍体は教室から発見されているらしい。生徒を早く帰さなくてはならないので、被害者の男友達に会う方を優先した。
山田洋介は所謂イケメンで、如何にも女生徒にもてそうなタイプだった。安田には優男に見えた。この年齢からジゴロタイプは現れるものかなと思わせた。
「山田洋介君だね」
学校の事務室が当面の警察の拠点として使用された。
「西川さんに最後に会ったのは何時かね」
「昨日学校内で会ったのが最後です。それから」
「それから?」
「ラインしました」
「電話、メール?」
「両方です。秀美は僕が彼女から離れるんじゃないかと心配してたから、慰めるのに一苦労でした」
「と云うと、君は他に彼女がいるのだね」
安田の意地悪な質問に、山田はしどろもどろになった。
「いえ、あの、そんなことはないです」
「まあ、いい。秀美さんの携帯は調べる。どんなメールの会話をしたかは判る。で、君は昨夜2時頃家にいたかね」
「はい、何処にも出てません」
「それを家族が証明してくれる?」
「はい」
「秀美さんは誰かに恨まれていたかね」
「いいえ、ないと思います」
「例えば君のもう一人の彼女は」
「そんなことが、殺人事件にまで発展するなんてあり得ません」
「そうだろうな、一応彼女の名前を訊いておこう」
「玉利花子です」
「じゃ、もういいよ、有難う」
山田洋介が事務室を出ると、安田達は防犯ビデオのディスプレイを見た。
一通り残酷映像を確認すると、安田と新村は再度再生ボタンを押した。
「この布地は何だろう、厚手のストッキングかな」安田が問うた。
「そうですね、それで覆面をして、黒いサングラスを掛けていて、犯人の容貌は確認出来ません」
「うむ、それにしても犯人は何故血液を抜いたのだろう。吸血鬼を気取った訳か」
「そうでしょうね、まさか血を呑む訳でもないでしょうに」
「いや、案外呑むかもしれんよ。この犯人はマニアックだ」
「身長は175近辺でしょうか。かなりの確率で男ですね」
「うむ、ところで人の血液量はどの位だ」安田が訊いた。
「そうですね、私は鑑識課員ではないですが、体重1Kgに対して約80mLというところですか」
「するとどうなる。この少女の体重45Kgだとして」
「3.5Lという辺りですか」
「案外少ないな。犯人のキャリーバッグは内部にビニールで目張りしてあるな恐らく」
「血液が零れないようにですね」
安田は深く嘆息した。
「全く厄介な事件だ」
生徒達は教師の引率で集団下校していた。皆戦々恐々心中穏やかではなかった。吸血鬼がまだ何処かに潜んでいるかもしれない。
山村奈津美は背後から声をかけられて、振り向いた。新城武彦だった。
「何よ、新城さん」
「今度の日曜日宜しく」
「こんな非常時にデートに誘うなんて、無神経過ぎる」
新城は頭を下げた。
「そうだよな、……それじゃ、皆、これからウチに集まらないか?」
「新城さん宅に?何するの」
「降霊会だ」
新城は真顔で云った。
「降霊会?」
「そうだ、秀美さんの霊を呼び出すんだ」
「それ、孤狗狸さんのこと?」
玉利が訊いた。
「そう、こっくりさん。それなら抵抗ないだろう。……奈津美、玉利、丸田さん、田中もどうだ?」
「何だか面白そうね、乗るわ」
玉利花子は乗り気だった。
「皆も行こうよ」
五人で新城宅に集まることに決まった。
西田のマンションの5階が新城宅だった。其処の客間に、新城、奈津美、玉利、田中、丸田の男女五人が集まった。丸田は恐がって、参加を断り、見学を希望した。
丸テーブルの上に、五十音を書いた紙を載せて、テーブル周囲の椅子に四人が腰を下ろした。
硬貨を乗せて、皆が人差し指を当てた。
「孤狗狸さん、孤狗狸さん、」奈津美が唱えた。「どうかこの部屋においで下さい」
静寂の中、四人の呼吸は次第に荒くなる。
「秀美、どうか出て来て。私達に総てを告げて」
四人の指先に力が入る。全員が極度に緊張していた。丸田は息を呑んで、傍らの椅子に着いている。窓のカーテンが僅かにはためいた。何処かで、パンとラップが鳴った。
「秀美、教えて。一体何があったの?」
驚くべきことに、テーブル上の硬貨が独りでにゆっくり動き始めた。
「き、最初はき、ね」
更に硬貨は滑る。
ゆ。う。け。つ。き。
「吸血鬼、それから?」
ま。だ。こ。ろ。し。は。つ。づ。く。
五人は戦慄を禁じ得なかった。
「秀美、教えて」奈津美が問いかけた。「吸血鬼は誰なの?」
あ。く。ま。
2
水族館口の電停を下りると、右手に直ぐ現代的建築の県民交流センターがある。快晴の日曜日午後、奈津美は新城や田中のデートの誘いを断り、玉利花子と二人で、公開シンポジウム、教育と発達心理学の見学者に来た。青竜高校の校長、大倉利三が参加している為だ。
二人は何気なく、途上の中古パソコン店を覗いた。パソコンのディスプレイはニュースを映していた。
「鹿児島で起きた、吸血鬼事件は依然謎に包まれています。但し県警鑑識課によれば、被害者の頸の刺し傷から、微量の鉄の粉が検出。吸血鬼の牙に噛まれたのではないことが判明しています。恐らく犯人は鉄製の牙を歯にはめて、被害者を噛んだと見られます……」
「怖いわね」奈津美が云った。
「犯人は人間なのね、矢張り」玉利が呟いた。
「人間じゃないわ。あんなことするのは悪魔よ。秀美の死に顔見た?」
「掃除用具入れの中で逆様になってた。酷たらしくて、一生忘れられないわ」
「そうね」
二人は交流センターに向かった。
シンポジウムは専門的内容で、二人にはハイレベル過ぎた。
漸く大倉校長が演台に立った。銀髪の美しい紳士だ。
「先ず演目に入らせて頂く前に、ひと言良いですかな。……先日、我が校で誠に不幸な事件が起きました。亡くなられました生徒のために、この場を借りて、1分間の黙祷を捧げたいと思います」
会場の時計は午後2時15分を指している。
同じ2時15分、谷山のコンビニの裏手、ごみ置き場の傍らで、青竜高校の205ルーム、須藤恵子が、吸血鬼の魔手に捕らえられていた。吸血鬼が彼女の喉を噛んだ。
「本題に入ります。死の願望というのは、ホメオスタシスによるシステム破壊にあります。と申し上げて、退行に繋がるネゲントロピーに屈してはならない…」
吸血鬼は、倒れ込んだ恵子の頸に注射器を刺した。彼女の血液を採血。
「死の願望を回避するには、常に新しい情報の交換を行う必要性があります」
恵子は血液を抜かれた蒼白の顔で、路面に斃れた。彼女の頭上には防犯カメラが向いていたが、誰一人モニターしていなかった。
翌日、奈津美は余程学校を休もうかと考えた。テレビ等で第二の殺人事件を大々的に報じていた。今回は別のクラスの少女が被害者だったものの、渦巻くパニックは半端どはなかった。実際学校側は休校を検討したらしいが、結局再度教師の引率付きでの登校になった。
報道関係者が校門前に多数待機しており、非常に五月蠅かった。奈津美もマイクを向けられた。駆けて逃げた。ニュースヴァリューが有るのは判るが、彼らは余りにも好奇心剥き出しだ。
奈津美が教室に入ると、新城が話しかけてきた。
「奈津美、昨日どうして?」
「そんなこと云ってる場合じゃないでしょう」
「それは判るけれども、俺、須藤恵子って娘知ってたから」
「それだったら」
「それとこれは違うんだよ。俺にとってみれば奈津美との関係の方が大事なんだ」
その時、田中が二人の間に割り入ってきた。同時に二人は田中を見た。
「田中君、どうしたの?」
「何も、唯痴話喧嘩を見ていられなくて」
「何だ、田中、御前には関係ないだろう」
新城は憤慨して云った。
「いや、新城、俺も関係ある」
「何故?」
「俺も昨日、奈津美と逢う約束をしたからだ」
「何だって、田中もか。それは初耳だ」
「田中君、違うでしょう」奈津美も怒りを露わにした。「貴方が勝手に手紙で云ってきただけ。私は何とも返事してないでしょう」
「そうか、本当か、田中」
「ああ」
「それなら、約束じゃないな。俺はちゃんと奈津美と約束したんだ」
奈津美は首を振った。
「新城さん、貴方のも違うと思う。私は返事してないでしょう」
新城は口ごもった。
「まあ、それはそうかも」
今度は、玉利が三人に割って入った。
「やめてよ、三人とも。朝から痴話喧嘩なんか」
三人とも各々溜め息をついた。
「奈津美、ちょっといいから」玉利が奈津美の手を引っ張った。「此方に来て、話がある」
「何よ?」
玉利は深刻な面持ちだった。
「本当に三人とも、この間の降霊会を忘れたの。大変じゃない?」
「確かに大変よね。これからも悪魔が殺しを続けると云うのだから」
「そうなの、だから」玉利は提案した。「霊能者のところに行きましょう」
「霊媒を知っているの」
「独り知ってる」
男二人も同意した。
「俺達も一緒に行くよ」
四人は意思を確認し合った。
大江仙三は外見的には極く普通の初老男性だった。それもその筈、トヨタフォークリフトの斡旋が職業だった。但し裏の稼業として神職の資格を持っていた。霊視能力があると云うことで、その筋では著名な男だ。
次の土曜日の午後、奈津美、玉利、新城、田中の四人は高麗町の大江宅を訪れた。
「私は格別徳の高い霊能者ではないんですよ。唯、神眼を持っていると云う自信はあります」
「今、世間を騒がせている、吸血鬼事件はご存知ですよね」
大江は頷いた。
「ニュース等で見知っています」
「この事件を霊視して頂きたいんです」
奈津美は頼み込んだ。
「弱りましたな。どんな御事情で?」
「私達、あの青竜高校の生徒なんです。何とかして、これ以上の悲劇を阻止したいんでせ」
大江は納得した様子だ。
「そうですか。それでは祝詞を上げてみましょう」
大江は準備した。神棚に御神酒、周囲に大量の塩をまいた。彼は祝詞を挙げる。厳粛な空気に包まれた。
「見えてきました」彼は云った。「異様な迄の甚だしい怨念が見える。この事件の並外れた残虐性はその所為だ。甚だしい憎悪が根底にある」
大江は更に霊視を続けた。
「動機は復讐ですな。神眼に映る。……白いベッド、横たわっている少女……」
「それは誰なのですか」奈津美が訊く。
「いや、いやあ、そこまでは判りません。兎に角この病弱な少女の復讐です」
大江は小刻みに震えた。
「恐ろしい、凄まじい怨念……」
彼はトランス状態に入っていた。
「水を、水をくださらんか」
玉利がコップに水を持ってきた。
彼は飲み干した。
「兎に角、私は事件には関わりたくありませんな。危険過ぎる」
「いいえ、有難うございました」
奈津美は頭を下げた。
新城、田中の男二人は慄然と沈黙した儘だった。
その夜、大江は独りだけの晩酌をしていた。妻は三年前に亡くなり、一人息子は東京で商社に勤務していた。彼は真正孤独だった。昼間の暫しのトランス状態がまだ尾を引いていた。酒には酔えなかった。
不意に、彼の鋭敏な感覚が何かを捉えた。彼の背に戦慄が走った。
彼は大急ぎで、床の間の日本刀を取った。
「何者だ。返り討ちにしてやる」
辺りを、沈黙が支配している。
大江は白刃を抜き放った。
だが彼の足元は震えていた。
敵が何処にいるか判らない。
刀を上段に構えた。
心臓の鼓動が速まる。
次の刹那、革手袋の手が背後から、ハンマーを振り下ろした。
吸血鬼は、斃れた大江の頸に噛みついた。次の瞬間、大型注射器を頸に刺した。
翌朝のテレビニュースを見た、奈津美達の驚愕は半端ではなかった。初めて極めて身近に殺人者の影を感じた。次はわが身かと、ゾーッと総毛立った。
「つまり、大江さんは核心に近づいたのね。それで消された」
「でもどうしてそれを知ったの?吸血鬼は千里眼を持っているの」
玉利が非現実的な千里眼を持ち出したのも当然だった。
「空を飛ぶ吸血鬼のイメージ。空から総てを監視している」
「奈津美、冗談半分はやめて。犯人は牙を持っていないという報道よ。犯人は人間なのよ。それに」
「何?」
「私達の所為で人が一人亡くなられた。私達が霊視を頼まなかったら、あの人は死なずに済んだのに」
「そうね、私達の責任よね」
「どうする、これから?」
「そうね、私立探偵にでも依頼してみましょうか」
「それも一つの策かもね。でも私達、お金はない」
「秀美さんのお父さんに頼んでみる?探偵に依頼してくださるように」
「でも探偵と云っても、誰が良いかしら」
3
狭い事務所内には大音量でロックミュージックが鳴り響いていた。ホワイトスネイクの本国での三枚組ベストアルバムを朝から、亀田は聴き込んでいる。亀田は私立探偵の看板を、探偵業法通り、県警に届けを出して、掲げていたが、全く鳴かず飛ばずで、仕事にあぶれていた。結局毎日ロックのCDを聴いて過ごした。このアルバムはスネイクの米国でのヒット曲が余り収録されておらず、隠れた名曲を多数選んでいる点、彼の趣味に合っていた。
昼食を何処で食べるか考えた。このところ牛丼チェーン店が続いており、飽きるとハンバーガーという食生活、最近仕事もなく、明らかに肥満の兆候が表れた。
ディスク3に変えようとした時、スマホの着信音が鳴った。久しぶりの仕事の依頼かと思い、携帯を取った。
「はい、亀田探偵事務所」
聞こえてきたには、年配の女性の声だった。
「すみません、私、西川と申します」
「西川様、仕事のご依頼でしょうか」
「はい…」
「どういった案件でしょう」
「あの、わたくし、西川秀美の母です」
「と仰有いますと。そのお嬢さんの名前に聞き覚えはありませんが」
相手は少し当惑した様子だった。
「あの、今、世間を騒がせている事件の、最初の犠牲者の母です」
亀田は素早く記憶を辿る。
「事件と仰有いますと、あの吸血鬼事件?」
「はい」
「それは本当ですか?」
「ええ」
亀田は驚嘆した。
「お間違えではありませんか。此処は警察ではない」
「承知致しております」
「驚きましたな。私立探偵に殺人事件の調査を依頼なさるお積もりですか」
「はい、駄目でしょうか」
「駄目ではありませんが、私はその種の依頼は聞いたことがありません。警察の捜査進捗を待たれたら如何ですか。此方は捜査網、鑑識なし。利点と云えば、捜査令状なしで自由に動けるくらいのものです」
「それで構いません。心の支えが欲しいんです。お願いできませんか」
亀田は深呼吸した。
「判りました。純粋にビジネスならお受けします。私は警察とパイプがない訳でもないので」
相手は安心した様子だった。
「宜しく御願い致します。これから伺います」
「お待ち致しております」
亀田は電話を切ると、書類作成の準備をした。確かに荷が重いが、久しぶりの仕事だった。
西川洋子は同伴者と一緒だった。奈津美と玉利である。三人入ると事務所内は一杯になった。
「秀美のクラスメートの方々です。山村奈津美さん、玉利花子さん」
「宜しく御願い致します」奈津美が云った。「私達、秀美さんの友達というだけでなく、直近の霊媒師の事件の関係者なんです」
「色々お話を伺える訳ですね。同席なさって結構です」
洋子は秀美の事件の顛末を掻い摘まんで話した。奈津美達は大江に霊視を頼んだ経緯を伝えた。
亀田は腕組みして、神妙に耳を傾けた。
「秀美さんはネグリジェ姿の儘、殆ど夢遊病のように出て行かれたんですね」
「はい」洋子は頷いた。
「ううん、断定は出来ませんが、催眠術の可能性はありますかね」
「催眠術ですか」
「思いつきです。唯それだと、危険を無視して夜中出て行かれた、説明にはなります」
「そう云えば、あの夜、秀美は何だか熱に浮かされたような様子でした」
「犯人のコントロール下にあったのかもしれませんね」
「そういうことだったんですか」
「吸血鬼の呪いとでも思われました」
「はい」
奈津美が意見を挟んだ。
「この世には超自然の現象もありますわ」
「認めます」亀田は同意した。「霊媒師が自分の霊視が核心をついていたから殺された、と云う解釈には賛成です」
「事件の動機は甚だしい憎悪、怨念だと云っていました」
「それは正しいかもしれません」
「白いベッドと少女が見えるとも」
亀田は首を傾げた。
「さて、そこまで当たっているのか、私には判らない」
「降霊会で、悪魔が殺しを続ける、と出た」
「降霊会とは、こっくりさんですね。参加者は?」
「私と玉利、新城武彦、田中久光」
「成る程」亀田はメモした。
「この中の誰かが意図的に硬貨を動かしたと、考えてらっしゃるのね」奈津美が云った。
亀田は無言で頷いた。
「ひどいわ」
「お嬢さん、それが現実です」
「だとすると誰なの」
「それを調べます。……この犯人は恐らく見た目は普通の人間だが、あるとき殺人犯に豹変する二重人格者でしょう」
洋子は金離れが良かった。亀田は久々潤った。
安田警部補は自宅のソファーの上で、何時の間にか寝入っていた。子供時代の夢を見ていた。まだ若い父が何か怒鳴る声が耳をつんざいた。それは音量最大にしてあるスマホの着信音だった。
安田は半睡で、手をテーブルに伸ばした。
「何だ」
「夜分、済みません、警部補、また例の吸血鬼です」
「そうか、直ぐ行く。場所は」
「唐湊霊園の近くです。納骨堂の田上台側」
「墓地の中か」
「中ではありません。近くです」
「判った」
昼間の格好の儘、寝ていた。急いで上着を着た。拳銃を確認した。
夜闇の中、プリウスが走る。何とかして、吸血鬼を止めなくてはならない。安田は相当に焦りを募らせていた。
現場は直ぐに判った。彼は車を降りた。
「安田さん、此方です」新村が云った。
急勾配の坂道の路面に、少女が倒れていた。安田は懐中電灯を遺体に当てた。
被害者の右手付近に血な染みが見えた。
「何だか、文字のように見えるな」
「ええ」
「H T…血文字は、H Tだな」
安田は少女の右手を慎重に掴んだ。
手の中に何か薄い布地を掴んでいる。
「これは、ストッキングだな」
「そのようです」
「犯人の覆面を破り取った。すると被害者は犯人の顔を見た」
「そして血文字を書いたのでしょう」
「何だろう。イニシャルかな」
「H T ですか。そんな名前は五万といますね」
「厄介だな」
安田と新村は暫し沈黙した。
ドンキホーテ他スーパー等が次々と建てられ、旧谷山市に近い、郊外の宇宿は随分と発展した。港もあり、豪華客船も停泊し、外国人とすれ違うことも珍しくない。
そんな田舎街の一隅に、カラオケスナック、ラヴラヴはあった。しかし平日で、客も閑散とした店内に、亀田は入った。夜の9時過ぎのことだった。
「いらっしゃいませ」
「ビールを貰おうか」
「はい」
亀田はおしぼりで手を拭きながら、奥な唯一人の客を見た。演歌を歌う声が酷く掠れていた。間もなく客は帰るだろうと思われた。
ビールが来ると、マダムにマイクを渡された。亀田は困惑しながら、ビールをちびちび呑んだ。歌を容易に断れなかった。Is this love を仕方なく注文した。
亀田はラブソングを小さな声で歌った。
その間に客は帰った。