くたびれOL、魔王様の抱き枕を拝命いたしました!?
 自分より低い体温に包まれて、改めて一番安心出来る場所は此処だと実感する。
 抱き締めるシルヴァリスの腕の中で、理子は漸く強張らせていた体の力を抜いた。

「シルヴァリス様っ」

 高級そうな黒いシャツに理子はぎゅうっと顔を擦り付ける。
 布地に涙と鼻水を吸い込ませてしまったのは申し訳ないけれど、胸いっぱいに彼の纏う花の香りを吸い込むと乱れた気持ちを落ち着いていく。

「リコ」

 名前を呼ばれて顔を上げる。
 見上げれば、視界いっぱいにシルヴァリスの綺麗な顔が飛び込む。
 急に恥ずかしくなって、理子は視線を逸らした。

 視線を逸らして気付いた。
 シルヴァリスの背後は駅のホームでは無く見慣れた場所、お盆休み中滞在していた時に理子が使わせてもらっていた部屋だった。

「あ、あれ?」

 駅のホームに居たのに、いつの間に?
 転移したとしても、いつの間に此処まで移動したのか。
 どうやって彼は理子が嫌な目にあっている事を知ったのか。
 混乱してシルヴァリスへ視線を向けると「名を呼んだだろう」と彼は笑って、理子の頬を優しく撫でた。

 そっと抱き上げられて、横抱きでソファーに腰掛けたシルヴァリスの膝の上へ座らせられる。
 涙が乾かないままの理子の目元を、彼は人差し指で拭うと手をぎゅっと握ってくれた。

「落ち着いたか?」

 聞かれた途端、先程の電車内での出来事がぶわっと脳裏に甦る。理子はシルヴァリスの胸に顔を埋めた。
 男性に触れられた部位が気持ちが悪くて、上書きをする様にシルヴァリスにすがり付いてしまった。

「私、ち、痴漢にあったみたいなの。初めて痴漢されたし、くっつかれて髪の毛も舐められて、すごい気持ちが悪くて。シルヴァリス様が来てくれなかったら、ベンチで動けなくなるくらい、相当参っていたかもしれなくて。ありがとうございます」

 ひきつる口元を動かして無理矢理笑みの形にする。

「リコに手を出した男には、制裁を与えた」

 すうーと表情を消して何やら物騒なことを言ったシルヴァリスは、理子の髪を纏めているヘアゴムを外して電車内で男に舐められた髪に触れた。

 ふわり
 あたたかい風が理子を包み込み、髪や汗でベタついていた肌を優しく撫でる。

「あ……」

 痴漢に舐められた髪も、汗ばんでいた肌もサラサラになる。
 髪から仄かに香るのは、リンゴに似たフルーティーなカモミールの香り。
 カモミールの効果は、リラックス。
 不安や緊張を和らげたり、心を落ち着けて安らかな気分にさせる効果があるという。
 その香りを選んだ彼の気遣いに、嬉しさと愛しさで理子の心臓の鼓動が速くなる。

「汚された髪は清めた」

 綺麗になった黒髪をシルヴァリスは指に絡ませる。髪を弄る指がくすぐったくて、理子は目を細めた。

「想定以上に、リコの魔力が異界に影響を及ぼしているようだ。魔力が安定するまでの間は、此処で過ごせ」
「此処で? でも、仕事には行かなければならないよ。退職までの間に、引き継ぎの資料を作らなければならないもの」

 退職の話をした翌日から休む訳にはいかない。祝福してくれた職場の人達に、迷惑をかけないようにしたいのに。
 心配してくれる気持ちは嬉しいが、退職と引っ越しの手続きをしなければ此方の世界には行けない。 

「では、此処から通えばよい。これは、命令だ」
「此処から? 私は、」

 話している途中なのに、理子は強烈な眠気に襲われる。
 命令とは、どういうつもりか。眠らされると焦って目蓋を開けていようと抵抗を試みても、強制的な睡魔には抗えずに、あっさり理子の意識は眠りの淵へと追いやられてしまう。

 グラリ、と傾いだ体をシルヴァリスの腕が抱き締める。

「……今宵はこのまま眠るといい」

 完全に意識が途切れる直前、遠くの方からシルヴァリスの声が聞こえた気がした。


< 115 / 153 >

この作品をシェア

pagetop