策略家がメロメロ甘々にしたのは強引クールなイケメン獣医師
『桃と距離は離れても、ここからは離れない』って、自分の胸に人差し指をあてて言ったのに。
 オンにして、私の心を感じてくれている? 

 オンなんて夢のまた夢。もう私のことなんか、これっぽっちも考えていないよね。

 私の苦しさやつらさは、少しでも楽になるように未然に防ぐって言ったじゃない。

 記憶が消せたら、どんなに楽か。卯波先生が私の心を縛りつけるから苦しいよ。

 突き刺さり、えぐられる強烈な哀しみに胸が痛くて、息をするのさえ苦しいよ。

 卯波先生がいない。毎日、こんなに苦しんで、いつになったら楽になれるの?

 卯波先生がいないなんて、私はどうしたらいいの。

 どうしたらいいの?

 内なる声に耳を傾けてみたって、答えなんか返ってこない。

 だって、初めての恋と初めての失恋だもん。
 私に答えなんかわからないよ。

 冷えきったアスファルトに引きずり込まれそうなほど重くなった体を、必死に前へ前へと進ませて、ようやくマンションに帰って来た。

 ドアを閉めると、張りつめた心の糸が切れ、怒涛のような哀しみに襲われる。

 毎日、こんなつらい想いをして卯波先生との想い出を忘れなくちゃいけないの?

 スポンジの上を歩いているみたいに力なく歩を進め、棚の上に座っているブービーを抱き締めた。

「ブービー、ブービー。あなたは、ずっとそばにいてね」
 昨年の七月に卯波先生から、おみやげでもらって以来、ずっと私といっしょだね。
 
 多忙な卯波先生に逢えない寂しさを、あなたを抱き締めることで紛らわしていたっけ。

 今夜もまた、卯波先生の微かな残り香に包まれたくて、寂しがる私のために卯波先生が結んでくれたハンカチとブービーに顔を埋める。

「ブービー、今日もまた寂しい一日が過ぎるよ」

 部屋の模様替えもした、音楽も聴いた。友だちは何度も何度も食事に連れ出してくれた。

 でも、なにをしても忘れることなんてできなかった。

 別れなんて言葉なんかない世界にいたと思っていたのに、まさかって坂に、まっ逆さまに突き落とされた。

 今日で落ちるところまで落ちた。これ以上の哀しみや苦しみはない。
 そう思いながら過ごす毎日。

 なのに毎日、絶望感に襲われて深い哀しみに突き落とされる。
 絶望の果てには、明るい光はあるの?

 無限に広がる闇の中で、緑色に光る時計の文字を、ただじっと凝視して、不安な心を消すようにブービーを抱き締めてベッドにもぐり込む。

 卯波先生、夢の中でしか私を抱き締めてくれないのなら、どうか永遠に私を眠らせておいて。

 せめて夢の中でだけでも逢いたい一心で、私は泣き疲れて深い眠りに落ちる。
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