策略家がメロメロ甘々にしたのは強引クールなイケメン獣医師
「その顔をだ」

 急に室内が明るくなり、勢いよくドアが開く音に、卯波先生と同時に振り返った。

「どうしたんだよ、ぎゃあぎゃあ聞こえてきた」
「たいしたことない」
「緒花が震えてるじゃないか」
「心配ない、もう落ち着いた」

 恐怖でなのか、卯波先生に抱きついたからなのか、体の震えが止まらない。

「いっしょにアルの棺に花を飾ってあげてくれ、怖がる」

「なにを?」
 卯波先生を見ている院長、なにが怖いんだって不思議そうな顔。

「顎、顎ですよ」
 あいだに割って入り、交互に二人を見ながら訴えた。

「しっかりと説明をしただろう?」
 子どもをなだめる口調で卯波先生が、声をかけてくる。

「顎がなんだって?」
 院長が真剣な顔で、卯波先生の答えを待っている。

「死後硬直を怖がる、これだったから余計に」
 卯波先生が軽く指さす方向へ目をやれば、真上の殺菌灯。

「顎の次は四肢がカクカク動くぞ」

「よせ、からかうな、怖がらせるな。せっかく落ち着いたんだ。見てみろ、今にも泣き出しそうだ」

「ひとりで大丈夫です」

「なに、気を遣っている、強がるな」
 卯波先生が私の腰に手を添えて、手術台に向かせる。

 息を飲む声、漏れなかったかな。驚きで心臓が激しく鼓動する。

 腰に手を添えられただけだってば、早く落ち着いて。どきどきよ、鎮まって。

「これ以上、脅かすなよ?」
 卯波先生が、人差し指を院長の胸もとに突きつけて釘を刺した。

 ほとんど感情を表に出さない卯波先生の、いつもより少し強い語尾が嬉しくて、知らずしらずに微笑みが頬に浮かぶ。

 もっともっと激しく鼓動が打ちつけるのを、もう抑えようともしなくなっちゃった。

「卯波、もう上がれよ、お疲れさん」
「お疲れ」
 卯波先生が院長に告げて歩きかけたら、なにか思い立ったように振り向いた。

「もうやんねえよ、帰れよ」
「誓えよ?」
「わかってるよ」
 なにこの二人、中学生のじゃれ合いみたいで可愛い。

「始めるぞ」
 坂さんのときの見学と違って、今日は院長と実践。

 坂さんが初日に教えてくれた通り、院長はなんでもやらせてくれるから、アルの処置も口は出しても手は出さないで見守ってくれる。

「今日は、顎ガクや安楽死と心の中ぐちゃぐちゃだろ?」

「びっくりの連続です。安楽死は、やるせないです。こんなに哀しいことはないっていうほど、胸が苦しいです」

「だよな、俺だってつらいよ」
「院長も?」
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