サレ妻は永遠の痛みに晒される
1、発覚
1、♢♢♢発覚♢♢♢





きっかけなんて、ほんのささいな愛の確認からだった。


『ねえ、愛してる? 』


『愛してるよ』


夫とのそんな言葉のやりとりは、ただいつものように甘いだけのはずだった。

でも朝から妙に勘が冴え渡っていた私は、何故か次々と余計な光景を思い出したり、ささいな事に気づいたりする、それが絡まるように結びついていって、そして一本の筋が見えた、その行きつく先がはっきりと分かってしまう、私はうっかりと踏み込んでしまったのだ。

彼が知られたくなかった過去。
それは私が疑い続けていた現実だった。


♢♢♢


その日。

私はいつものように仕事に行っていた。
週に3日のアルバイト。


「これお願いしま〜す」


10時ごろ、隣のオフィスの女性社員が、エレベーターの点検の日時のプリントを、持ってきてくれた。


「は〜い、」


と戸口まで出て受け取る。

職場は小さな法律事務所で、他にも複数のテナントが入居しているオフィスビルの一室にあった。そこで週に3日だけ、簡単なお手伝いをしている。

隣はこのオフィスビル全体を管理している会社で、いつも点検の日時を知らせてくれる。その時間帯にはエレベーターが停止するので、特に足に自信のない人には重要な予定だ。事務所の所長もその一人、毎月ちゃんと予定を伝えないといけない。


「わかりました。先生にお渡ししておきますね」


にこり。

見た事がない社員さん。
女性社員がお願いしますと軽く頭を下げて、髪が揺れた。上げた頭は見上げるほど、スラリと背が高い。何故だか、
(あれ? )
もやっと心がする。

若い社員さんだった。

綺麗な長めのマッシュショートボブ。
右手の指で髪を耳かけして、細身の高い背丈が、何だか見た事があるような気がして、瞬間、何の関係もないこの人が《嫌いだ》と思った自分にとまどった。

あわてて会釈してにこり。


「ありがとうございます」


と軽くお辞儀。
初対面なのに嫌悪感なんて感じたから、申し訳ない気持ちがした。





何だか居心地悪い気分だった。
そんな自分を反省しながら、夕方、いつものように家に帰る。
夫と2人で住む部屋。
職場から歩いて15分ほどのマンションが見えてきたら心が浮き立つ。
オートロックを開けて、入口で荷物や手紙類を点検、それから部屋の鍵を開けて入った。

うん。
今日も綺麗!

毎日ちゃんと気をつけている、玄関だってピシッとしていた。夫は散らかっているのが好きじゃない。帰ってきて最初にホッと出来るように玄関は要注意だ。彼にゆっくり過ごしてもらいたいから、頑張っているんだ。

ここは元々は彼のお部屋だった。
大学を卒業したと同時に学生会館を出なくてはいけなかった私は、地方の実家に帰る事なく、3才年上で社会人になっていた彼の部屋に泊まり込んだ。そのまま半年ほど同棲。学年で一番早く結婚した。

大好きな初恋の彼とゴールイン。
彼には絶対、私が妻でよかったと思って欲しい。

彼はシンプルな趣味の人で、家具も絨毯も家電も、最初からシックに揃えてあった。私は結婚したときなるべくスッキリした部屋のままでいられるように、自分の荷物は少なくするよう気をつけた。結婚後もいつも片付いているようにしている。

今日はクローゼットの掃除をする日。
2人の寝室は大きめのダブルベット。
夜のために寝具を整える。
洗濯したグレーの無地のシーツをピシッと敷いた。

クローゼットは大好きな場所だ。

彼の洋服や小物があるから、彼と一緒にいるみたい、早く帰ってこないかな、なんてシャツを撫でる。
クローゼットでスーツを整えていたら、秋物の一点だけが、やけに目に付いた。何故だかデジャヴ⋯⋯ 。

(あ⋯⋯ )

と思った。

このスーツを着た彼の隣で軽やかに揺れる髪⋯⋯ 。心の奥に残っていた残像が、鮮やかに思い浮かんで、刃物のようにさぁっと気持ちが切りつけられたような気がした。
昼間、事務所で話をしたお隣の社員さん、あの時のカノジョに似てたんだ。





何年前だったのかな⋯⋯ 。
夫の会社に入社した新入社員の女性。
髪型や雰囲気が昼間話した人に似ていた。
嫌いだった。
すごく嫌だった。
あの人の事、嫌いだった私。

だって私と正反対のタイプだった。
なのに彼の隣で当然のように笑っていた。
カノジョの姿が、鮮やかに目の前に浮かぶ。
思い出したくもない。

カノジョは毎日、彼と同じ職場だった。
彼はカノジョを気にいっていた。
私と正反対なのに気に入ってたんだ。
1年もせずに、何の事はない、カノジョが転職したのだけれど⋯⋯ 。

彼も当時の私の不安な気持ちをちゃんと知っていた。

毎年4月に彼の会社にも新卒の採用者が入社してくる。
どんな人が入社してきたのか、いつも彼と話をしていたので、その年も1人1人について聞く事は、私達の間では特別な事ではなかった。
本当は彼の会社の内定がもらえなかった私。
受かった会社は勤務地が実家の地方だったので、辞めてしまった。彼もそれを望んだ。私が新入社員になる事はもうないんだな、なんて、毎年話を聞くのが楽しみなんだ。

私は、新入の1人だったカノジョについて、『かわいい? 』と何の思惑もなく聞いたのだ。


『うーん、』

『え? 』


何、この間⋯⋯ 。
ゾロリ⋯⋯ 心に広がる嫌な嫌な気持ち。
かわいいと思えば、いつも普通にそうだと言うし、いつもは君の方が好みかな、とか言ってくれるから、深い意味なんてないはずなのに、彼は言い淀んだ。


『うーん、まぁ、話しやすいかな、』


と言葉を濁す。
何か違う、いつもと。
嫌だな、彼はカノジョが気になっているんだと思った。初対面なのに気にしてる、もう話しやすいと思うほど2人で話したんだ、何を?

何でもないって自分に言い聞かす。

女性というだけでいちいち大袈裟に嫌な気持ちになっていたら、彼が困るよって思った。
何でもない普通のことに、変な気を回して言ったら、余計にそう思っちゃうかも、って心配になった。

でもそれから、彼は、何かに気を取られているような様子が増えたんだ。
会社から帰宅して、何となく考え事をしていたり、2人きりでソファーで座っていたら、私の話を聞いてなかったりしたんだ。

それでも大丈夫だった。
だって私が不安で嫌な気持ちになっていたのもちゃんと全部言ったし、話し合ったし、彼も普通に全部隠さず言ってくれていたから。

いつも私達は理解し合っていた。

私が何度もしつこく話題に出して、安心したくて聞いても、彼はちゃんと答えてくれてた、別にカノジョとは何もなくて、ただ話が合う子だよって、私と正反対なタイプだけど、だからって彼は私が好きで⋯⋯ 。


『正反対なタイプ? 』

『あ、いや、スポーツが好きなんだよね、カノジョは⋯⋯ 』


スポーツが得意⋯⋯ 。
最悪って思った。
よりにもよって、最悪の気分。
気持ちがぎゅっと黒く固くなる。
彼もスポーツが得意だ。
でも私はあんまり得意じゃない。

だからその後、スポーツジムのテニスの教室にしばらく通った。
最悪、最悪⋯⋯ 頑張れば頑張るほど、やっぱり出来ない、私、出来ない⋯⋯ 。
元々得意な彼と楽しむほどには到底出来るはずない、悲しくて、落ち込んでいたら、


『残念だけど、いいじゃない。君は料理も得意なんだから、その方がいいよ』


と言ってくれた。

でも私は、後から彼の話を聞いて、すごく嫌な気持ちになったんだ。
会社の社員旅行で、彼がカノジョとテニスを楽しんだって言ったから。
『ご角の腕前だった、カノジョ県大会にも出たらしい』
と帰宅後言っていたのを聞き逃さなかった。


『君も出来たら、ね、』


と素直な感想が彼から出る。もちろん他意はない。その後、


『大丈夫だよ、本当に大丈夫だ』


と何でもなく(つぶや)いた。

何度か、自分に言い聞かせるように『大丈夫』と彼は言った。だからその度、心がギリギリと重苦しくて黒くなるようだった。

 でも大丈夫、
 君の方が好きだから⋯⋯

思わず自分に言い聞かさないといけないぐらいには、彼はカノジョが気になっていた。

そんなことを思い出して、今更ザラザラと心がささくれていく。何年も前だ。別に何かあったわけじゃない。私は、少しでも彼に近づくどんな女性も気に入らないんだ、そんな心の狭さが嫌で、平常心を装っているんだ。

何でもない顔で彼を待つ。

数年前のよく分からない話を思い出してしまっただけ。もちろん蒸し返す必要もない。あのカノジョとは、彼はいつの間にか話をしなくなり、年を越さずに転職したそうだったから。





カチャン、


夫が帰宅。
スーツ姿。
上着はすぐ脱いで、ソファーの背にパサッと仮置き。
ふんわり、外の匂い。
彼は水色の縦縞のシャツになっている。よく似合っていた。
ワイシャツ姿の背中や、シャツをインしているズボンの細身の腰回り、そこからすらりと伸びる長い足にドキドキする。


「ただいま」


彼の声。
一日中、聞きたかった、ただいまって幸せな言葉だな。私の元に毎日帰ってきてくれて、


「おかえりなさい」


って答える。
会いたかった。

背が高い彼が家に戻ったら、いつものように貴重品をチェストにのせた。
薬指の指輪は既婚者の証。
彼は私のもの。
斜めに(うつむ)いて、左手首の内側の金具を、右の手の指ではずす。
少し大ぶりの腕時計を外して、カタンと置く音がした。
その後、手首のボタンを外す仕草を後ろからいつも見ている。

チェストには結婚式の時の写真が飾ってある。
愛する旦那様の彼と幸せな白いウェディングドレスの花嫁はもちろん私。
永遠の愛を誓って、家族になった日の写真だ。

彼はすぐに私が欲しくなる。
『一日も離れていたからね』
昨夜も愛し合ったけど、彼は行為が好きな人だ。

モテまくるタイプでもないが、普通に健全にモテて、女性に普通に慣れている。姉と妹がいるので、女性の接し方がとても上手だ。
鼻梁が高く、彫りが深く、スポーツが得意そうな手足の長いしなやかな細みの体。
私は髪の生え際が好き。
硬めの黒い髪を男らしく短めにして、形の良い額から前髪をかき上げたときの大きな手と生え際が大好き。

耳や首筋が男性としての魅力を感じる。
生え際と、額と、耳と、首筋と、そして骨張っている大きな手、長い指とその爪。
上腕の内側の白い肌の部分、なめらかな張りのあるかたい筋肉。
それから、高くて形良い鼻の横の、頬骨の辺り、目の下のちょっと柔らかい部分。
瞼、眉、まつ毛、もう一度生え際。
いつも全部堪能して、それから首筋に顔を埋める。
この甘い彼の匂いが大好き。

彼の愛しい唇が『愛してるよ』って言う。
薄くて形良い、彼の愛を直接伝えてくる唇。

柔らかくてふわりとしていて執拗で、その魅力的な形を存分に感じさせながら舌でペロリと舐めあげてくるんだ、ぞくり。





なのに、今日はその顔を見たら、さっきから思い出した余計な事のせいかな、さらに鮮明に嫌なことを思い出してしまった。

2つ。

1つは、愛し合った時に彼が、
『背の高さがもっと同じだと違うんじゃない? 』
と言いながら足を絡めてきた事。
いつだっただろう。
数年前。
私は背が低くて小柄だから、背の高い彼と30センチぐらい差がある。
『当たる場所が違う』とか、『これぐらいだとこんな事もできる』とか、ゴニョゴニョ言ってて、
『もうちょっと背があっても良かったかな、』
と少し残念そうに彼が笑った事。

もう1つは、彼の会社の新入社員だったカノジョは背が高かった。
そして数年前って、3年前だった事。
3年前の新入社員だった。
マッシュショートボブの似合うすらりとした背丈。
はっきり思い出してしまった。
カノジョは22才、誕生日を過ぎてた彼が27才で、オレより5才年下だ、って言ったから3年前。

(はらわた)が煮え繰り返るような気分。
なんて、大袈裟だと思いながら、何でもない顔を装う。
何にもないよ。
いつも通り、愛しい人。

でも何だろう⋯⋯ 。
勘?
とでもいうのかな⋯⋯ 。
(そこだ、やっぱりそこだ、)
となぜか勘が伝えてくる⋯⋯ 。





夫と辿り着く先は、必ず体を重ねる事だった。
どんな出来事も、日常も、嬉しいことも悲しいことも、嫉妬も、すべての解決はそれだった。

つまり根幹だった。2人の愛の。

お互いがお互いを苦しいぐらい求めて、純粋に愛して愛される。

神聖な愛の形だと信じていた。

幸せな幸せな両思いの2人。
私は愛を信じた。
なのにずっと、どこかでなんか変って、感じていたんだと思う。
彼は私を愛してる、それは確かだ。でも彼の、何かが、どこかが変なんだ。
例えるなら、一枚の薄い紙が間に挟まっているようなかんじ。

優しくて私に甘い彼だけど、いつもいつも、唯一彼に思うところが、その理由のない違和感だったから、余計と意識してしまっていたんだ。

それでも信じていたし、まさかと思うから信じるようにしてたし、そんな事が愛し合う自分達に起こるなんて思いたくなかったし、ずっと死ぬまで彼といるんだって信じてた。


「ねぇ、愛してる? 」

「ふふ、愛してるよ」

「私だけ? 」

「君だけだよ」


いつもの愛。
ずっと続く愛。
それを何故か私はいつも確認してしまっていた。いつか確認なんてしなくていい2人になれるんだろうって思いながら、何故か、どうしてか、確認せずにはいられなかった。

何でもないよね、2人のやりとり。いつもの通り。

でも、その日、その愛の解決への当然の道筋が狂っていく⋯⋯ 。

急に思い出した苛立ちやずっと感じていた違和感、無いから形にしないように気をつけて気をつけて、純粋に彼だけを信じて愛する自分でいようとしている私から、執拗な勘がゾロリと出てきて、私を愛して油断している彼を付け狙う。

いつものような、愛の確認、今日の()(くく)りは、私は彼だけなんだ、一生彼1人だけ愛してるって言う告白、分かりきってる2人の間の告白。
だから彼に思いを言うためだけのどうでもいい話題だった。


「友達のカレシが、その経験が5人いたんですって。多いかなって悩んでるんだって」

「そんなもんじゃない? 普通だろ。オレは6人だった、かな⋯⋯  」

「 ⋯⋯ えっ? 」


ベットで話しながら、あっと思った時には、開けてはいけなかった彼の秘密の扉に手をかけていたのがわかった。

隠されていた?

いや隠すんじゃなくて、言わなかっただけ、彼は厳重に細心の注意を払って隠していなかった。

ポロリと不用意に漏らした言葉でその覆いがハラリと外れる。
薄い紙のような違和感が、偶然、捲り上がって、私はその端を引っ掴んだ。





 えっ? だって⋯⋯
 おかしくない?
 えっ?


私はベットに起き上がっていた。
空気が急に重く濃くなったみたいだった、えっ? って思って、息が吸えないみたいに感じた。

さっきまでと同じ空気と思えない、えっ? 何で⋯⋯ ?

私は、その微かなまるで言い間違えたかのような数字に、やはり聡く気づくほどには彼を真剣に愛していたし、彼の言っていないという隠し事にも敏感だった。

彼は嘘を突き通すには私を愛しすぎていたから嘘なんてつかないんだ、でもその100の真実の中に1だけ、隠していた事を言ってしまっていた。

今、ポロリと真実が口から出た。
こんなところにその扉があった。

えっ? って、もちろん見逃せなかった私だった。

いっそ、そんな僅かな(ほころ)びなど、気づかないほどの自分であればよかったのかもしれない、もしかしたら、ただの言い間違えだと聞き流してしまって全然気がつかなかったかもしれない。

けれど、きっと、いつか違う形で何らかの見えない綻びに、やはり爪を立て()じ開けようとしたのだろうと思う。
2人の間の薄い紙を挟んでいるような違和感があった限り、どうにかして、どこかから私は()じ開けていたのだと思う。

彼は黙っていた。

私は、気づいてしまった見えないほどの隙間に、爪を立てて()じ込んで、血が流れてもやめずに渾身の力で抉じて抉じて抉じて、


「もうやめよう」


と彼が掠れた声で苦しそうに言った。


 待って、でも、おかしくない? 
 どうして?
 どうして?
 過去のカノジョの数が増えてるの?
 どういうこと?
 なんで?
 なんで?
 なんで?


彼は高校の時付き合った子が3人、予備校時代に1人、大学に入ってから1人、みんな短期間だったそうだ。
それからは私だけ。

私は彼だけ。
1人だけ。
永遠に死ぬまでって決めてる。

だから今日だって、彼だけだって言って愛し合うだけだったはずだ。

大学を卒業して半年で結婚して、それから4年。
3才年上の彼。
先日の結婚記念日に花婚式と書籍婚式と言われたから、お互い花束と本を送り合ったばかりだった。

彼から真っ赤なバラの花束をもらった。
『愛してるよ』
って。
『永遠に』
ずっと先の結婚記念日、こんな記念日があるよ、ふふっ、って楽しみに話すぐらい永遠を確かめ合った⋯⋯ 。

彼の過去の恋愛は、付き合い始めた時に全部聞いた。苦しかった。辛かった。でも過去は変えられないから何度も泣きながら乗り越えた。
やっと乗り越えた。
だって、私と出会う前の事だったから。

7年前の会話。

でもちゃんと私は覚えてる。

5人だった。
絶対に。
だのに彼は今、


「6人だった⋯⋯ かな」


って言った。


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