サレ妻は永遠の痛みに晒される
5、再会
2、♢♢♢再会♢♢♢


 1人きりの朝


今までで一番辛くて苦しかった夜が明けて、気がついたら朝になっていた。
あんなに痛みを感じた日はなかったな、と思う。

愛を失ったそんな特別な翌日にも、太陽はいつもみたいに昇って普通に1日が始まっていて、それがとても不思議に思えた。

だって昨日は彼と2人で迎えた朝だったから、すごくハジメテの日の翌朝によく似ていて、いつもみたいに、これからもこうなのかな、って、これからも毎日毎日、何度も彼と一緒にページをめくるみたいに日を過ごしていくのかな、なんて、あ、違う⋯⋯ 、やっぱりあの事は消えていない。無かったことにならない。

だから、こんな痛みの中に急に1人きりでいたら、朝なんて来ないのかな、と思ったし、ザーザーと色もなく周囲が流れるみたいに感じて、私だけ世界から切り離されていて、前も後ろも上も下も何もないような感覚の中、どう話をして、どう歩いていたのか、自分じゃないみたいだった。

頭のどこかに知らない人がいて、ちゃんと電車に乗って、実家に戻って、話をして、部屋で寝たから、今は朝になっている。

1人で眠れるわけないと思っていたが、いつの間にか寝ていたみたい。
寝ていたかどうか、分からないような曖昧な状態で、うつらうつら、多分目が覚めた。

いつもと変わらない朝が、なんて事なく自然に始まっていた。





実家は地方都市のさらに郊外の住宅地にある。学生時代に何回か帰ったのを除いて、8年ぶりの帰省だったが、高校生の頃から町の様子はほとんど変化していなかった。
両親は一軒家からマンションに引っ越ししたのだが、一駅ほどの近所なので、町の雰囲気は同じだ。
それに、私の母校の近くのマンションだったから、わざわざ何故ここを選んだのかと驚いてしまった。


「偶然よ」


と昨夜、親が笑いながら言った。小規模な低層型のこのマンションを友人に紹介され、緑の多い静かな住宅地で利便性も良くて決めたそうだ。

マンションの前の道を、私の時と同じ制服を着た生徒が歩いていた。まだ変わっていなかったんだと生徒たちを目で見送る。友達と歩きながら楽しそうに話が弾んでいる。

私もあんな生徒の1人だったのかな。

彼と出会う前の私は高校生。
生まれてから18年過ごしていた場所。
彼なしで私が生きていた町と時間。

小鳥の賑やかな声で目が覚める。
生まれた場所が違うと、鳥の声も違うみたい、彼の部屋で聞いていた鳥たちと、きっと言葉が違うんじゃないかと思う。
こちらの鳥はすごくおしゃべりだ。
いったい何をそんなに話すことがあるのか笑えるぐらいに、ちゅんちゅんちゅんちゅん、と、いくらでも続いている。
こっちで話せば、またあっちでも声がする。
近くなったり遠くなったり。
数が増えたり、急に静かになったり。
姿は見えないけれど、すぐその辺りにいるのだろう。
待っていたらまたすぐにおしゃべりが始まる。
いつまでもその声を聞いていた。

遠く電車の音が聞こえた。
少しのんびり。
走る速さもゆっくりみたいだ。

近所の掃き掃除の音と、時々立ち話の話し声がしている。

[わん、わん、]

どこかで犬が鳴いている。
お腹でも空いたんだろうか。
朝ご飯の時間かな。

いつまでもそんな音を聞いている。

この辺りは家族だらけだ。
周り中に家があって、その中で普通の暮らしをしている家族が、いくらでもいる。
毎朝の日常の音を立てながら、日々の暮らしを営んでいる。
いとも自然に、何年も何年も幸せが続いている。
お父さんがいて、お母さんがいて。
子供、犬⋯⋯ 。
おじいちゃん、おばあちゃん。

家族。

私は失ってしまった、そんな日。

彼と別れてしまった。

子供の頃、家族が出来るのは簡単な事だと思っていた。
だって好きな人と結婚して家族になればいいんだから。
そうしたら、自然に子供ができて、ずっと一緒に暮らすんだ。

全部失ってしまった。





やがて夜になる。

1人きりのベットに泣きながら目が覚めて、また朝になった。

夜は嫌だ。
本当に1人みたいだ。

横になって、眠ろうとする以外にする事がないから、何も考えないようにしようと思うことだけ、それに必死で集中しようとする。

小さな声で童謡を歌うのも、わりといい感じだ。

日中にじっと家にいたから、体が疲れていなくて余計眠れないな。

浅い眠り。

寝たり起きたりしていたら、世の中は何事もなかったみたいに淡々と日が過ぎていく。
こうして1日を、1分をただ積み重ねていれば、それが日常というのかもしれない。

日中は、父も母も仕事に行く。
2人にがっかりされたが、彼らにはどうしようも出来ない。とっくに成人した、いい年の大人に、自分でどうにか考えなさい、としか言えないだろう。

意外にも何も聞かれなかったので、突然帰ってきた理由や原因を、まだ話せていない。

そんな事だけ考えていたら、また1日が過ぎていた。

1、2、3、4、5、⋯⋯

過ごした夜を数えてみたら、1人で生きている日が増えていく。

もう少ししたら、仕方ないから外出してみようかな。何をしても何を見ても考えてしまいそうになるから、目の前に見える事実だけをひたすら考えることにする。単純な頭に、思考に、日常に何も考えずにただ従う。

道路。
散歩の犬。
家。
道。
街路樹。
本屋。
喫茶店。
パン。

仕事をしようと思う。

でも、その手続きを確かめるのは面倒だった。全てを置いてきて、住所すらどうなっているのか、このまま放置しておいてはいけないことぐらいは分かってはいたが、まぁ、いいか。
甘やかしてくれる彼がいないから、自分で甘やかしてあげる。
しばらくの間。





『あれ? 新入生? よろしくね』


『いまの人だれ⁈ 』


と私が言っている。
大学生になって、こんなカッコいい男の人がいるんだ!
素敵な人!


2こ上の先輩だよ
やだ、顔真っ赤だよ


ドキドキ
一目惚れ。

なんかなんか、大人だ、彼ばかり気になってしまう。
カノジョがいたりするのかな。


『今はいないよ』


よかった!


あの人はモテるよ、何だか女性に慣れているから怖いと思う、と誰かが忠告している。


そんな事ないよ!

だって、私にだけ

こんな態度私にだけ


『浪人してるから、ホントはもう1コ年上』


と声を落として(ささや)かれて、たいした話でもないけれど、なんか特別みたい、秘密を聞いちゃったみたい!

3こ年上か、あんな素敵な人いないよ、背が高くてってなんで泣いてるんだろ、私⋯⋯ 。





『2人きりで行かない? 』


彼に誘われた。

座っていたら、その椅子の背に手をかけて、覗き込むように私を見ている彼がいる。

大きな手に腕時計。

彼は今より少し長めの髪型で、前髪がはらり、額にかかってカッコいいよ、何だか若くて恥ずかしい気がした。
私を見る目は変わらないんだ。
ヒタと狙うみたいに強い眼差しは、野生的で色気があるから、顔が熱くなった。

パンフレットが開いてある。
新しいテーマパーク。
天にも登るような気持ちって、まさに今の事だ。


『私ですか⁈ 』

『きみ以外、誰かいる? 』


クスクスって笑われた。しょうがないな、って。
彼の目を見たら熱い光。
私に対する気持ち。

間違いないよね。

こんな大人の先輩が私を誘ってる?
大丈夫かな。
本当に好きになって、いいのかな。

手を伸ばして、大きな手に触って、もっと近づいて、体を触って、見上げる。
背が高いから、彼はかがんで私にキスをした。深い深いキス。彼しか知らない。彼しかいない。馴染んだ匂い。大好き。


『今からテニスするんだよね』

『えっ⋯⋯ 』


いつの間にか、彼の反対側の横に、寄り添うように背の高い女性がいる。
テニスをするの?
私出来ないよ、
私を見てよ、
彼はすぐ近くの高さにあるカノジョの顔と見つめ合って話してる、そんなに屈まずに、自然にお似合いで丁度いい、
見上げる私から、2人はかなり高いところで、ちょうど良い顔の角度で笑い合う、
カノジョの揺れる髪から綺麗な耳が見えて、
彼が顔を傾けて、カノジョが上を向いて、
2人は近づく、
唇が重なる、
だめ、やめて、だめだって、
こっちを見て、
私は背が低くて彼からぜんぜん見えていない、
キスしちゃうよ、やめて、やめて、やめて、やめて、





「やめて‼︎ 」


自分の声で泣きながら目が覚めた。

夢。

心臓がドキドキしていて、悲しみに飲み込まれそうだった。

バカな夢。
現実の夢。






安心させたら男の人はダメよ。
浮気するから。


『もし、オレが他の子を好きになったらどうする? 』


彼が私のこめかみに唇をあてて言った。
彼の腕枕。
悲しくなって、腋窩(えきか)に顔を埋めた。
大好きな甘い匂いと、ほんのり、汗の匂い。
大好き。
大好き。


『仮定の話しただけで泣いちゃうなんて、かわいいね、君は』

『ひどいですよ、そんな話。ぐす、』

『ないから。絶対ないから。好きだよ』


男の人は少し、心配させておくぐらいがいいのよ。

そんな事! 私はしないよ。
だって好きだから。
彼が好きだから、ちゃんと真っ直ぐに彼だけを見て、彼に愛を捧げ続けるよ


『そんなんでオレが死んだらどうするの? 』


彼が苦笑している。


『私も死んじゃう、あなたなしで生きていけない』

『じゃ、オレ気を付けないとね。死んじゃわないように』





 死なないで
 生きていけないから
 あなたがいないと生きていけないから⋯⋯

夢。

そうして、彼のいない今。
まだ私は生きている。
彼は生きていて、なぜか私はここで生きている。

生きているのに会えない。
まるでこの世にいないみたいに。

こんなに長い時間会わなかった事がなかったな。
ずっと、一緒にいたんだ。
1秒。
彼に会わなかった時間。
また1秒。
彼に会わなかった時間。

生きてきた中で、一番辛い別れの痛みだと思った。
生きているのに、いないみたいに会えなくなる。
体の一部を力任せに無理やり引きちぎられるような痛みだった。

本当はきっと2人の間に子供も生まれて、父親と母親になって、生きていくはずだった。

起き上がって、何も無い部屋を見回した。
隣の部屋には両親が寝ている。

無理に居着いているこの部屋には何もない。
結婚式の写真。
チェストの上。

彼の腕時計。

ここにはない。

彼がいない。
この部屋には彼がいない。
どこにもいない。





「これ、買ってきて欲しいんだけど? 」


と親に買い物を頼まれた。
先日久しぶりに晩ごはんをつくったら、


「あなた、料理上手なのね」


と親に驚かれた。

彼もそう言ってた、このメニューはそう言えば彼の好きなものだったから何回も作って、無意識で私、おいしいよって言われて、彼の笑顔が、あわてて机の上を見る、
リモコン、
お皿、
ペン、
新聞、
⋯⋯
⋯⋯


いつまでも家の中でボンヤリしている私に、親が買物を頼んでくれたのだった。

頼まれたり決められる方がいい。
助かる。

それに何も考えずに従えばいいから。

合わせるのが得意。

彼に合わせるのが得意だった。
従うのが好きだった。
好きだった。

彼が。





1駅だけ電車に乗って、以前に家があった駅で降りて、ホームから階段を登った。
全然変わっていない風景が広がっていた。
昼間に駅で降りる人も大抵10人ぐらい、昔からだ。

たった一つしかない改札口を出たら彼が立っていた。
幻覚だと思った。
夢の続きかもしれないと考えた。

でも私は起きている。

学生の頃よく行った、ショッピングモールに行こうとしているの。
久しぶりに買い物を頼まれたから。
この駅から直結している、ちょっとさびれた、この辺りに住む人だけが利用しているような、小規模なショッピングモール。
ちょっと行ったらアイスクリームが売っているはず、まだお店があるのかな。
高校生の時、友達とよく行っていたんだ。

似ているだけの人だろう。

背が高いからって、誰でもをすぐに彼と思ってしまったのだろうから。
背が高い男性が、一心に改札を見ながら誰かを探し続けている。

でも見間違わないよね。

息を止めて眺めたら、
本人。

私を取り戻すためだけに。
遠いこの地まで探しにきた人。

一生会わないと言って、なのに何もかも置いてきて、彼が追いかけてくる事をどこかで知っていた浅ましい自分だった。
本当に会いたくない気持ちと、反して追いかけてほしい気持ち、どちらも私の気持ちだった。
亡霊のように、埋まらない彼の形の空洞を体内にかかえながら、何だか日を数えて夢を見て生きていただけの私。

心の中の傷がまた開いて、ドクドクと鮮血が溢れるのがわかり、呆然と立ち尽くした。

痛い
まだ痛い

ちょっと離れた期間など、なんの軽減にもならないぐらいの鮮烈な痛みがきた。

彼は私に目を止めた。
途端にホッとした柔らかい顔をした。


「あきらめられない、」


と彼は言った。

彼に、こんな喪失(そうしつ)は無理なんだ。私を失うことなんて彼には出来ないんだ。自分にも私にも甘くて優しい人だから。

またあの痛みに私は(さら)されるのだろうか。
永遠に問うても無駄な『なぜ』
後悔しても無いことなんて出来ない『どうして』

消えない不倫の事実で壊れた関係を繋ぎ合わせて、彼の純粋な愛と同じ彼の裏切りの表裏一体を(かて)にして愛し合う?
やはり彼の(とが)である不倫のせいでこうなったと、2度と会わずに途方もない喪失を味わってもらう?

どちらにしても、見えないからって、こんな深く傷が痛んでしまって、この傷を一生かかえて、どうにか生きているだけだ。
彼にこの傷は(いや)せない。

同じ痛みを彼に知らしめたい。

目の前のこの愛しい人に、痛みを。

喪失感を。

同じぐらい深い傷を。

そう思っていた。

遠いような変な気持ち。

薄ぼんやりと、心の中の生傷に比べて勢いのない()せた気持ちでいろいろ考えていたら、彼が近づいてきた。

彼が私に与えた痛みのせいでこうなったのに、彼はまるで、まだ私の方が彼を捨てようとしているみたいな気持ちを(にじ)ませていて、そんな彼の些細(ささい)な感情に気づかなければいいのに気がついたら、妙に冷めた気持ちで、こんな事、こんな感情無くしてしまいたいと思った。

どろりと心が真っ黒な物に飲み込まれた。

でも、どうしたらいいんだろう、どうしてなんだろう。

それでも。

この人だけが愛しい。

欲しい。
根こそぎ彼のすみずみまで全部が。
心も体も。
彼の1秒にいたるまで、すべてが私だけのものだった。
ずっと。

過去の彼だって私のものだったのに。

許せないな。

なぜ
どうして

そうして一番許せないのは、こんなに私に執着している彼が、あっさりと他の女性の手を取って幸せになってしまうことだ、と心の奥底でいじましい私が足掻きながら苦しく苦しく叫んでいる。

彼が近づいてきて、腕を伸ばして私を抱きしめた。


「今、新しく出会った2人でもいいんだ」


と嬉しくもない事を彼が言った。
彼の肩は私の頭より上。
ああ、そうだった。
長い腕、長い足。
広いあたたかい胸。

目を閉じて彼の香りを吸い込んだら、違う知らない匂いがする。
変な匂い。

私が変わったんだ。

嗅覚まで変わってしまっていた。

愛しい大好きな彼の甘い匂いを感じることは、二度ともうないんだと呆然(ぼうぜん)とただ抱きしめられている。




♢♢♢了♢♢♢
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