モテ男子はミソ・ラブ女子に陥落する
二 偽装交際は難しい①
沙也は帰宅早々パソコンを立ち上げ、Wordに履歴書の作成を始めた。
出会いは会社、交際期間は半年(嘘八百!)、互いに忙しくてなかなかどこかに出かけることは少ないが、社内で顔を合わせられるから満足している、という設定でいこうとなった。
しかしながら、結婚を意識した交際をしているのだから、互いのことはかなり理解していないといけない。その虎の巻を作ることになったのだ。
互いにそれぞれ日本でも名の知れた大学を卒業しているので、勉強も暗記も得意である。数ずつあれば十分だ。
(問題は……)
どれだけ親の前でラブラブ感を演出できるか、だ。これはかなり難しい。
「黒崎さんを褒めながら、好きアピールして、ご両親を信じさせて破談に導く……ってさ、好きアピールなんて無理よ。好きじゃないんだから」
祐司郎が聞けば奈落の底に落ちそうな言葉が口を衝いて出た。
沙也はため息をつくと、頬杖をついて黒崎の顔を思い浮かべた。整った甘いマスクはいつもにこやかに微笑んでいて、誰に対しても礼儀も愛想がいい。とにかく感心するほどのモテ男子なのだ。
女たちが彼との距離を縮めるべく、水面下で火花を散らしている様子を、遠巻きに眺めていたが、よもや自分がその黒崎とこんな関係になるなんて。バレたらただ事ではない。考えるだけで恐ろしい。
(仕事しろっていつも思っていたけどね)
頭がパンクしそうだ。沙也は気分転換に一服つこうと思い、立ち上がった。味噌専用冷蔵庫の一つから京白味噌を取り出し、キッチンへ。椀の中に細粒のダシと白味噌を少々、そこに湯を入れてかき混ぜてローテーブルに戻る。
香りを確かめ、一口飲んだ。
「優しくて甘い味わい。癒されるぅ」
うっとりと椀の中の味噌汁を見つめた。
白味噌は麹の割合が多いのでまったりとした甘みが強い。また塩分も少ないので、口に中に広がる味わいに尖りがなく、とてもまろやかな優しさを感じる。またクリーム色の色味は美しく、お公家文化の中で育っただけに上品で優雅だ。
「味噌サイコー」
沙也の脳内では、味噌汁のプールでちゃぷちゃぷ泳いでいる自分がいるほど幸せなひと時だ。
「ごちそうさまでした」
具のない味噌汁を飲み干し、さあ続きを、と思った時、ドアフォンが鳴った。
(誰か来た)
咄嗟に立ち上がったが、視線を壁の時計に向ける。時刻は九時だ。
「はい」
『神南さん、俺』
その瞬間、ぎょっと目を剥く。
(おっ、俺ってっ)
慌てて開錠し、扉を開くと、黒崎が待っている。
「どうしたんですか?」
「すり合わせをしようと思って。さっきラインを送ったけど、既読にならないし、来ちゃったよ」
「すみません」
と、反射的に謝ったものの、このまま家に入れていいのか悩む。しかしながら、帰れとも言えず、沙也が固まっているのを横目に黒崎が玄関に入ってきた。
「お邪魔します」
「…………」
「いいよね?」
「あ、えと、は、はい」
呆然と、靴を脱いであがる黒崎の背を眺める。それからはっと我に返り、後を追った。
「飲み物用意します。コーヒーでいいですか?」
「うん。でも」
「はい」
「その丁寧語、まずやめよう」
「え?」
言われたことがわからずきょとんとなるが、目が合って見つめ合って、はっとなった。
「そうですね」
「それ」
「あ。はい。そう……ね……?」
「そうそう」
なんだか背筋に嫌な汗が流れそうで、沙也は慌ててキッチンに向かった。
(えーー、マジでーー)
胸中でどよめいてみるが、黒崎の言っていることは正しいという気がしてくる。
(そうだよね。結婚を考えてるカップルが、敬語じゃ怪しまれるよね……)
早くもキツい。沙也は豆を挽きながら、黒崎をチラ見した。
(どうしてあんなにナチュラルな態度ができるんだろう。私なんか、夜に二人きりで心臓痛いくらいバクバクしてるのに。けっしてエロいこと想像してるわけじゃないし、一ナノもそんなシチュエーションは期待してないけど、やっぱり緊張するでしょ。それともこれこそがモテ男子の実力? すごすぎる)
自分がいかに恋愛慣れしていない初心者か痛感して、憂鬱な気分になってきた。
(意識してる自分がおかしいのかな)
挽き終わり、今度はドリップする。コーヒーのいい香りが鼻孔をくすぐり、少し気持ちが落ち着いた。
「お待たせしました。どうぞ」
「もう忘れてる」
「あ。ごめんなさい」
「なかなか慣れそうもないなぁ。スキンシップがいるかな」
「! からかわないでください。急には無理です。でも当日までには克服します」
ここまで言って沙也は、でも、と思った。
「ご両親の前でいちゃいちゃする必要はないから、言葉遣いだけ気をつけたらいいと思うんですが。あ、思うの……?」
なんだかもう無茶苦茶だ。大混乱の沙也に対し、黒崎のほうはうつむき加減になって肩を震わせている。
「黒崎さん!」
「祐司郎って呼びなよ。他はいいとしても、呼び方はデカいだろ」
またしても沙也はぎょっと目を瞠った。
「俺のほうは、神南さん改め、沙也って呼ぶから」
沙也の顔が真っ赤に染まった。
「沙也ちゃんのほうがいいかな」
「だから、からかわないで!」
黒崎がずいぶん寛いだまなざしを向けてくることに気づき、沙也が自分一人がわたわたしていることに気づいて、一人心の中で唸った。
(もっと冷静にならないと)
コーヒーを飲んでいる黒崎を睨むように見、沙也はさっきまで入力していたパソコンに視線を向けた。
「履歴書、書いてたんですが、どうです? 送るつもりでしたが、いらっしゃるんだからここで確認してもらったらいいんじゃないでしょうか」
黒崎がパソコンをのぞき込み、フラットポイントを触って画面をスクロールする。
「んーー、そうだね、大丈夫かな。俺のほうは? 知ってる?」
「大丈夫です。これでも総務課員だから」
「確かに。それでさ、沙也ちゃん、土曜なんだけど……どうかした?」
沙也の顔は真っ赤だ。ゆでだこみたいで、今にも呼吸困難で倒れそうな勢いだ。
「黒崎さんって順応性ものすごく高いんですね」
「そう? これでも営業だから。それに俺の両親を騙すんだから、俺が頑張らないと。頼み込んで来てもらうだけでもありがたいのに、説得までさせたら罰が当たる。沙也ちゃんはソファに座ってるだけでいいから」
「…………」
すっかり『沙也ちゃん』に馴染んでしまっている。沙也のほうは、とてもではないが『祐司郎さん』とは呼べないというのに。
(でも、呼ばなきゃ不自然だもんね。偽装交際……思った以上にキツい!)
そんなことを考えている間に、黒崎は移動していて四台の冷蔵庫の前に座っていた。
「開けていいか?」
「え? あ、冷蔵庫。いいですけど……」
黒崎はまずは一番奥の冷蔵庫の扉を開いた。
「ホントの味噌ばっかりだ」
冷蔵庫の中は二段になっていて、プラスチックパックが並んでいる。上段が赤みの濃い味噌で、下段が白い味噌だった。
黒崎は続けて隣の冷蔵を開けた。こちらは上段に見慣れた色味の味噌が並んでいる。三番目も同じだ。最後の冷蔵庫は色味こそバラバラだが、どれも大きなつぶつぶが入っているものだった。
「こんなに味噌ばっかりあっても消費できないんじゃない?」
「そんなことないですよ。味噌って涼しいところに置いておいたら、かなり長くもつんです。色味が悪くなっても、風味が落ちますが食べられますしね。お茶代わりに飲んだりしますよ。実は黒崎さんが来られる前も、一服で飲みましたし」
「面倒じゃないの?」
沙也は味噌の話になってうれしきて、気づかないうちに身を乗り出していた。
「そんなことないです。お椀に細粒のダシとお味噌を入れて、お湯で割ったら出来上がりですよ」
「具は?」
「なくでもぜんぜん平気」
「へえ。でもさ、味噌って塩分高いだろ?」
「そうですね、そこは気をつけないと。カリウムが多く含まれてる食材をお味噌汁の具材にしたりしますしね」
「カリウム?」
「ええ。カリウムは塩分を排出してくれるから」
「へえ。知らなかった」
「味噌は大豆や麹で作られてるから、ミネラルも多いし体にいいんですよ。肝臓にもいいし!」
そこまで言って、はっと我に返った。
(やってしまった……)
しまったと思ってももう遅い。
実は今まででも、異性となとなーくいい感じになったことが何度かあったのだが、趣味の話になり、味噌愛を語り始めて熱くなり、ドン引きされたのだ。
が、祐司郎はうっすら笑ってこちらを見ていた。あぐらをかき、膝に肘をついて頬杖をつき、沙也を眺めている。その表情は、甘いマスクもあってずいぶん優しく魅力的だ。沙也は鼓動が急に激しく打ち始めて焦った。全身が熱い。
「あ、の……」
「試しにお勧めなのを飲みたいんだけど、いい?」
「え! あっ、はい! ぜひっ」
慌ててさっき自分が飲んだ白味噌を手に取って立ち上がった。
出会いは会社、交際期間は半年(嘘八百!)、互いに忙しくてなかなかどこかに出かけることは少ないが、社内で顔を合わせられるから満足している、という設定でいこうとなった。
しかしながら、結婚を意識した交際をしているのだから、互いのことはかなり理解していないといけない。その虎の巻を作ることになったのだ。
互いにそれぞれ日本でも名の知れた大学を卒業しているので、勉強も暗記も得意である。数ずつあれば十分だ。
(問題は……)
どれだけ親の前でラブラブ感を演出できるか、だ。これはかなり難しい。
「黒崎さんを褒めながら、好きアピールして、ご両親を信じさせて破談に導く……ってさ、好きアピールなんて無理よ。好きじゃないんだから」
祐司郎が聞けば奈落の底に落ちそうな言葉が口を衝いて出た。
沙也はため息をつくと、頬杖をついて黒崎の顔を思い浮かべた。整った甘いマスクはいつもにこやかに微笑んでいて、誰に対しても礼儀も愛想がいい。とにかく感心するほどのモテ男子なのだ。
女たちが彼との距離を縮めるべく、水面下で火花を散らしている様子を、遠巻きに眺めていたが、よもや自分がその黒崎とこんな関係になるなんて。バレたらただ事ではない。考えるだけで恐ろしい。
(仕事しろっていつも思っていたけどね)
頭がパンクしそうだ。沙也は気分転換に一服つこうと思い、立ち上がった。味噌専用冷蔵庫の一つから京白味噌を取り出し、キッチンへ。椀の中に細粒のダシと白味噌を少々、そこに湯を入れてかき混ぜてローテーブルに戻る。
香りを確かめ、一口飲んだ。
「優しくて甘い味わい。癒されるぅ」
うっとりと椀の中の味噌汁を見つめた。
白味噌は麹の割合が多いのでまったりとした甘みが強い。また塩分も少ないので、口に中に広がる味わいに尖りがなく、とてもまろやかな優しさを感じる。またクリーム色の色味は美しく、お公家文化の中で育っただけに上品で優雅だ。
「味噌サイコー」
沙也の脳内では、味噌汁のプールでちゃぷちゃぷ泳いでいる自分がいるほど幸せなひと時だ。
「ごちそうさまでした」
具のない味噌汁を飲み干し、さあ続きを、と思った時、ドアフォンが鳴った。
(誰か来た)
咄嗟に立ち上がったが、視線を壁の時計に向ける。時刻は九時だ。
「はい」
『神南さん、俺』
その瞬間、ぎょっと目を剥く。
(おっ、俺ってっ)
慌てて開錠し、扉を開くと、黒崎が待っている。
「どうしたんですか?」
「すり合わせをしようと思って。さっきラインを送ったけど、既読にならないし、来ちゃったよ」
「すみません」
と、反射的に謝ったものの、このまま家に入れていいのか悩む。しかしながら、帰れとも言えず、沙也が固まっているのを横目に黒崎が玄関に入ってきた。
「お邪魔します」
「…………」
「いいよね?」
「あ、えと、は、はい」
呆然と、靴を脱いであがる黒崎の背を眺める。それからはっと我に返り、後を追った。
「飲み物用意します。コーヒーでいいですか?」
「うん。でも」
「はい」
「その丁寧語、まずやめよう」
「え?」
言われたことがわからずきょとんとなるが、目が合って見つめ合って、はっとなった。
「そうですね」
「それ」
「あ。はい。そう……ね……?」
「そうそう」
なんだか背筋に嫌な汗が流れそうで、沙也は慌ててキッチンに向かった。
(えーー、マジでーー)
胸中でどよめいてみるが、黒崎の言っていることは正しいという気がしてくる。
(そうだよね。結婚を考えてるカップルが、敬語じゃ怪しまれるよね……)
早くもキツい。沙也は豆を挽きながら、黒崎をチラ見した。
(どうしてあんなにナチュラルな態度ができるんだろう。私なんか、夜に二人きりで心臓痛いくらいバクバクしてるのに。けっしてエロいこと想像してるわけじゃないし、一ナノもそんなシチュエーションは期待してないけど、やっぱり緊張するでしょ。それともこれこそがモテ男子の実力? すごすぎる)
自分がいかに恋愛慣れしていない初心者か痛感して、憂鬱な気分になってきた。
(意識してる自分がおかしいのかな)
挽き終わり、今度はドリップする。コーヒーのいい香りが鼻孔をくすぐり、少し気持ちが落ち着いた。
「お待たせしました。どうぞ」
「もう忘れてる」
「あ。ごめんなさい」
「なかなか慣れそうもないなぁ。スキンシップがいるかな」
「! からかわないでください。急には無理です。でも当日までには克服します」
ここまで言って沙也は、でも、と思った。
「ご両親の前でいちゃいちゃする必要はないから、言葉遣いだけ気をつけたらいいと思うんですが。あ、思うの……?」
なんだかもう無茶苦茶だ。大混乱の沙也に対し、黒崎のほうはうつむき加減になって肩を震わせている。
「黒崎さん!」
「祐司郎って呼びなよ。他はいいとしても、呼び方はデカいだろ」
またしても沙也はぎょっと目を瞠った。
「俺のほうは、神南さん改め、沙也って呼ぶから」
沙也の顔が真っ赤に染まった。
「沙也ちゃんのほうがいいかな」
「だから、からかわないで!」
黒崎がずいぶん寛いだまなざしを向けてくることに気づき、沙也が自分一人がわたわたしていることに気づいて、一人心の中で唸った。
(もっと冷静にならないと)
コーヒーを飲んでいる黒崎を睨むように見、沙也はさっきまで入力していたパソコンに視線を向けた。
「履歴書、書いてたんですが、どうです? 送るつもりでしたが、いらっしゃるんだからここで確認してもらったらいいんじゃないでしょうか」
黒崎がパソコンをのぞき込み、フラットポイントを触って画面をスクロールする。
「んーー、そうだね、大丈夫かな。俺のほうは? 知ってる?」
「大丈夫です。これでも総務課員だから」
「確かに。それでさ、沙也ちゃん、土曜なんだけど……どうかした?」
沙也の顔は真っ赤だ。ゆでだこみたいで、今にも呼吸困難で倒れそうな勢いだ。
「黒崎さんって順応性ものすごく高いんですね」
「そう? これでも営業だから。それに俺の両親を騙すんだから、俺が頑張らないと。頼み込んで来てもらうだけでもありがたいのに、説得までさせたら罰が当たる。沙也ちゃんはソファに座ってるだけでいいから」
「…………」
すっかり『沙也ちゃん』に馴染んでしまっている。沙也のほうは、とてもではないが『祐司郎さん』とは呼べないというのに。
(でも、呼ばなきゃ不自然だもんね。偽装交際……思った以上にキツい!)
そんなことを考えている間に、黒崎は移動していて四台の冷蔵庫の前に座っていた。
「開けていいか?」
「え? あ、冷蔵庫。いいですけど……」
黒崎はまずは一番奥の冷蔵庫の扉を開いた。
「ホントの味噌ばっかりだ」
冷蔵庫の中は二段になっていて、プラスチックパックが並んでいる。上段が赤みの濃い味噌で、下段が白い味噌だった。
黒崎は続けて隣の冷蔵を開けた。こちらは上段に見慣れた色味の味噌が並んでいる。三番目も同じだ。最後の冷蔵庫は色味こそバラバラだが、どれも大きなつぶつぶが入っているものだった。
「こんなに味噌ばっかりあっても消費できないんじゃない?」
「そんなことないですよ。味噌って涼しいところに置いておいたら、かなり長くもつんです。色味が悪くなっても、風味が落ちますが食べられますしね。お茶代わりに飲んだりしますよ。実は黒崎さんが来られる前も、一服で飲みましたし」
「面倒じゃないの?」
沙也は味噌の話になってうれしきて、気づかないうちに身を乗り出していた。
「そんなことないです。お椀に細粒のダシとお味噌を入れて、お湯で割ったら出来上がりですよ」
「具は?」
「なくでもぜんぜん平気」
「へえ。でもさ、味噌って塩分高いだろ?」
「そうですね、そこは気をつけないと。カリウムが多く含まれてる食材をお味噌汁の具材にしたりしますしね」
「カリウム?」
「ええ。カリウムは塩分を排出してくれるから」
「へえ。知らなかった」
「味噌は大豆や麹で作られてるから、ミネラルも多いし体にいいんですよ。肝臓にもいいし!」
そこまで言って、はっと我に返った。
(やってしまった……)
しまったと思ってももう遅い。
実は今まででも、異性となとなーくいい感じになったことが何度かあったのだが、趣味の話になり、味噌愛を語り始めて熱くなり、ドン引きされたのだ。
が、祐司郎はうっすら笑ってこちらを見ていた。あぐらをかき、膝に肘をついて頬杖をつき、沙也を眺めている。その表情は、甘いマスクもあってずいぶん優しく魅力的だ。沙也は鼓動が急に激しく打ち始めて焦った。全身が熱い。
「あ、の……」
「試しにお勧めなのを飲みたいんだけど、いい?」
「え! あっ、はい! ぜひっ」
慌ててさっき自分が飲んだ白味噌を手に取って立ち上がった。