モテ男子はミソ・ラブ女子に陥落する
二 なぜ断る? よくわからない感情
グリーンイグアナのフランソワーズの世話――といっても、野菜をやって、糞尿の掃除をし、一回だけ浴室に連れていってシャワーを浴びさせてやっただけだが――をしての週末が訪れた。今、沙也はフランソワーズをケージから出して自由にさせている。
ケージに戻して出かけるのもどうかと思い、次回の旅行先を考えることに時間を費やしながらフランソワーズとの一人と一匹の時間を過ごしていた。
確かにフランソワーズはおとなしく、ほとんどじっとしていて動かない。慣れてきた時に側面を撫でてやったら、気持ちいいのかころんと転がって腹を見せたのには驚いたものの、それはそれでなかなかにかわいい――と思ってしまったりしたものだが。
「お前、意外と懐くのね」
カウチソファに座っている沙也の横にぴとっとくっついて、じっとしているフランソワーズだ。その表情は読み取れないが、話しかけると目が合うような気がする。あくまでも、気がする、だけなのだが。
「黒崎さんっていつ帰ってくるんだろうね」
一週間と言っていたから、火曜か水曜くらいなのだろうと推測するが。スマートフォンに変化はない。
パソコンに視線を落とし、旅行先のチェックを再開しようとした時、玄関が開く音がした。
「ただいまぁ~」
「え」
まもなくリビングの扉が開いて黒崎が入ってきた。
「おかえりなさい。でも、早くないですか?」
「おう、なんか話がとんとん拍子に進んで、契約取れたから帰ってきたんだ。これ、お土産」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは俺のほうだよ。悪かったね。でもマジで助かった。フランソワーズ、どうだった?」
沙也はフランソワーズの名が出たので、反射的に振り返った。当のフランソワーズはカウチソファに乗っかったままの状態でこちらを見ている。
「おとなしかったです」
「だろ? じっとしてるから。けど、ちゃんとわかってるよ、自分に好意的か、そうじゃないか。フランソワーズ~ただいまぁ~」
黒崎は荷物をその場に置いてフランソワーズに歩み寄り、ぎゅっと抱きしめた。フランソワーズは何度かまばたきをするものの、それだけだ。嫌がっている感じもしないが、喜んでいる感じもしない。
(でも……ホントに嫌ならイヤイヤするよね? 喜んでるのかな……)
黒崎はフランソワーズに顔をつけてスリスリしている。妹のペットだと言っていたが、本人もかなり愛着を持っているようだ。
「さて、神南さん」
「はい」
「家に送っていくよ」
「あ、そうですね。でも、帰ってきたばかりでお疲れでしょう。ここから近いし、一人で帰るので大丈夫ですよ」
「そういうわけにはいかない。俺、着替えてくるから、その間に用意してもらえるかな」
「はあ」
なんだか追い立てられているような気もするが、海外出張から帰ってきて、他人にいつまでもいられたら気も休まらないだろう。それに自分だって、いつまでも他人の家に居座る気もないので、黒崎が帰ってきたのなら自分も帰宅しようと思い、急いで準備を始めた。
もとより散らかさないように気をつけていたので、用意はあっという間だ。
「じゃあ、フランソワーズ、元気でね」
バイバイと手を振ると、無表情のフランソワーズであるが、長いしっぽが左右に揺れている。それを見ると、なんだかジーンとなった。
(イグアナ……慣れたらかわいいかも)
もうフランソワーズに会うこともない――と思うと、なんだかちょっとしんみりする。かといって、この社内外で超モテモテのモテ男に向け、またここに来たいとか、フランソワーズに会いたいなんて言う気にはならない。
(だって、誤解されたくないし)
会社には働きに来ているはず――と本気で思うほど、この男の周囲には社内外問わず女がまとわりついている。
(そういえば、配属された時、芸能人がいるのかと思ったくらいだもんね)
仲良く互いのアプローチを励まし合っていた者たちが、黒崎との距離に差が出た瞬間にいがみ合うのだから目も当てられない。沙也はそんな世界に足を踏み入れたくはないし、永久に無縁でいたいと思っている。
とはいえ、本気で困っていて、助けを求められて無視するほど鬼でもないから、今回引き受けたのだが。
「フランソワーズの食費、どれくらいだった? 精算するよ」
「いえいえ、たいした金額じゃないのでお気になさらず」
「いや、するだろ、普通」
「ですね」
そう言われたらそうだろうと納得する。自分だって逆の立場だったら同じことを言い、引かないだろうから。
「でも、ホントにわからないんですよ。私が食べるために買った野菜を分け分けしたから、金額の出しようがなくて」
「分け分け?」
「え? あれ、変でした? わりとよく使うんで」
「かわいいね」
「かわいい? どこが?」
「いや、言葉が。分け分けって」
なんだか微妙な空気を漂っている。沙也は自分の言葉が黒崎に誤解を与えたかもしれないことに気づいた。ここは軌道修正が必要だろう。
「普通から使ってるんで、そんな風には思わなかったです」
これで自分のことを指して尋ねたわけではないとわかってもらえただろう。なんとなく黒崎の様子が変わった気がしたので伝わったようだ。沙也は内心で安堵した。
「千円くらいでどうですか?」
「あー、だったら、またメシゴチろうか。そのほうがいいかな」
「いえ、千円でいいです」
「どうして?」
あなたと食事に行ったことが誰かに知られたら、えらい目に遭う――とは言えないので、ここは自虐してでもかわさねばならない。
「前に言った通り、旅行によく行くので、お金のほうがありがたいです」
「……なるほど。わかった。じゃあ、千円で。家に着いたら渡すよ」
「ありがとうございます」
会話がひと段落着いたところで、沙也の住むハイツに到着した。そして黒崎が財布から千円を取り出し、差し出してくる。沙也は礼を言ってその千円を受け取った。
では、と言って降りようとした時――ぐう! と大きな挨拶が車内に響き渡った。
「あ、ごめん。昼抜いたもんで」
黒崎が腹をさすりながら言った。
「ウチでなんか食べていきます?」
しまった! と思ってももう遅い。考えるよりも先に口が動いてしまっていた。
「でも、一週間いかなったから、冷凍ものを使った料理しかできないですけど」
内心で、断れ断れ、と自分で誘っておきながら唱えてみるが、黒崎の返事は――
「それはありがたい」
だった。がっくり。
結局、沙也は先に降りて料理の準備にかかり、黒崎は近所のコインパーキングに車を置いてからやってきた。
ごはんはレトルトだ。調理しやすいように切り分けて冷凍している鶏肉や野菜、キノコを水に入れて火にかける。ずいぶんと具だくさんだ。細粒のかつおだしを入れて湧くまで待ち、その間にミックスビーンズにドレッシングをかけてサラダにし、鯖や角煮の缶詰を皿に盛った。
そこに黒崎がやってきた。
「わ、本格的だ。でも、神南さんの分は?」
ローテーブルに並んでいるのは一人分だけだ。
「私はお昼しっかり食べたのでまだお腹空いてないんですよ。でも、レトルトと缶詰なんで、お店に行かれたほうがよかったかもですねぇ。あ、黒崎さんはお味噌に好みはありますか?」
「好み?」
「白みそが好きとか、赤味噌がいいとか、甘いのがいいとか辛いのがいいとか、これが苦手とか」
「いや、ないけど。なんでもOK」
「んー、だったら、信州味噌にしようかな。白みそを少し加えてもいいかも」
沙也は四台ある小型の冷蔵庫の一つを開けて、中から二つ取り出した。それぞれを鍋に溶かす。
「どうぞ」
「おー、いい匂い。うまそう。いただきます」
味噌汁から口に入れた黒崎は、目を大きく見開いた。
「うまい!」
「そうですか? ならよかったです」
沙也は礼を言いながら、コーヒーの準備をしている。円形のコーヒーミルに豆を入れ、ゆっくりとハンドルを回して挽く。それを黒崎はまた驚いたように食べながら見ている。
「コーヒー、挽くところから?」
「そのほうが断然おいしいでしょ」
「…………」
「それに、食事のほうがかなり手抜きなんで」
「いやいや、これ、おいしいよ。それに缶詰はバカにできない」
挽き終えたらサーバーにセットし、少量の湯でしっかり蒸らしてから、ゆっくりと湯を落とす。挽いた時にもいい香りがしたが、湯を注いで豆がひらいてからの香りも格別だ。
それをじっと見ている黒崎が、ぽつんと言った。
「やっぱ、なんかご馳走するよ」
「え?」
「味噌が好きなら、料亭とか」
「急にどうしたんです? いいですよ、そんな気を遣わなくても。あんまりお礼と言われるとこちらが恐縮しちゃうんで、フランソワーズには千円、この食事には家まで送ってもらったってことで、チャラってことにしてください」
「……そう。わかった」
黒崎はあっという間に食べ終え、淹れたてのコーヒーを飲んだら帰っていった。
それを見送った沙也は――
(誘われても困る。社内の激モテ男と下手に距離が縮まるのは、身の危険を感じる。それだけは勘弁。だけど……なんかちょっとしょぼんとしてたようにも見えたんだけど。冷たかったかな?)
なんて思う沙也だった。
ケージに戻して出かけるのもどうかと思い、次回の旅行先を考えることに時間を費やしながらフランソワーズとの一人と一匹の時間を過ごしていた。
確かにフランソワーズはおとなしく、ほとんどじっとしていて動かない。慣れてきた時に側面を撫でてやったら、気持ちいいのかころんと転がって腹を見せたのには驚いたものの、それはそれでなかなかにかわいい――と思ってしまったりしたものだが。
「お前、意外と懐くのね」
カウチソファに座っている沙也の横にぴとっとくっついて、じっとしているフランソワーズだ。その表情は読み取れないが、話しかけると目が合うような気がする。あくまでも、気がする、だけなのだが。
「黒崎さんっていつ帰ってくるんだろうね」
一週間と言っていたから、火曜か水曜くらいなのだろうと推測するが。スマートフォンに変化はない。
パソコンに視線を落とし、旅行先のチェックを再開しようとした時、玄関が開く音がした。
「ただいまぁ~」
「え」
まもなくリビングの扉が開いて黒崎が入ってきた。
「おかえりなさい。でも、早くないですか?」
「おう、なんか話がとんとん拍子に進んで、契約取れたから帰ってきたんだ。これ、お土産」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは俺のほうだよ。悪かったね。でもマジで助かった。フランソワーズ、どうだった?」
沙也はフランソワーズの名が出たので、反射的に振り返った。当のフランソワーズはカウチソファに乗っかったままの状態でこちらを見ている。
「おとなしかったです」
「だろ? じっとしてるから。けど、ちゃんとわかってるよ、自分に好意的か、そうじゃないか。フランソワーズ~ただいまぁ~」
黒崎は荷物をその場に置いてフランソワーズに歩み寄り、ぎゅっと抱きしめた。フランソワーズは何度かまばたきをするものの、それだけだ。嫌がっている感じもしないが、喜んでいる感じもしない。
(でも……ホントに嫌ならイヤイヤするよね? 喜んでるのかな……)
黒崎はフランソワーズに顔をつけてスリスリしている。妹のペットだと言っていたが、本人もかなり愛着を持っているようだ。
「さて、神南さん」
「はい」
「家に送っていくよ」
「あ、そうですね。でも、帰ってきたばかりでお疲れでしょう。ここから近いし、一人で帰るので大丈夫ですよ」
「そういうわけにはいかない。俺、着替えてくるから、その間に用意してもらえるかな」
「はあ」
なんだか追い立てられているような気もするが、海外出張から帰ってきて、他人にいつまでもいられたら気も休まらないだろう。それに自分だって、いつまでも他人の家に居座る気もないので、黒崎が帰ってきたのなら自分も帰宅しようと思い、急いで準備を始めた。
もとより散らかさないように気をつけていたので、用意はあっという間だ。
「じゃあ、フランソワーズ、元気でね」
バイバイと手を振ると、無表情のフランソワーズであるが、長いしっぽが左右に揺れている。それを見ると、なんだかジーンとなった。
(イグアナ……慣れたらかわいいかも)
もうフランソワーズに会うこともない――と思うと、なんだかちょっとしんみりする。かといって、この社内外で超モテモテのモテ男に向け、またここに来たいとか、フランソワーズに会いたいなんて言う気にはならない。
(だって、誤解されたくないし)
会社には働きに来ているはず――と本気で思うほど、この男の周囲には社内外問わず女がまとわりついている。
(そういえば、配属された時、芸能人がいるのかと思ったくらいだもんね)
仲良く互いのアプローチを励まし合っていた者たちが、黒崎との距離に差が出た瞬間にいがみ合うのだから目も当てられない。沙也はそんな世界に足を踏み入れたくはないし、永久に無縁でいたいと思っている。
とはいえ、本気で困っていて、助けを求められて無視するほど鬼でもないから、今回引き受けたのだが。
「フランソワーズの食費、どれくらいだった? 精算するよ」
「いえいえ、たいした金額じゃないのでお気になさらず」
「いや、するだろ、普通」
「ですね」
そう言われたらそうだろうと納得する。自分だって逆の立場だったら同じことを言い、引かないだろうから。
「でも、ホントにわからないんですよ。私が食べるために買った野菜を分け分けしたから、金額の出しようがなくて」
「分け分け?」
「え? あれ、変でした? わりとよく使うんで」
「かわいいね」
「かわいい? どこが?」
「いや、言葉が。分け分けって」
なんだか微妙な空気を漂っている。沙也は自分の言葉が黒崎に誤解を与えたかもしれないことに気づいた。ここは軌道修正が必要だろう。
「普通から使ってるんで、そんな風には思わなかったです」
これで自分のことを指して尋ねたわけではないとわかってもらえただろう。なんとなく黒崎の様子が変わった気がしたので伝わったようだ。沙也は内心で安堵した。
「千円くらいでどうですか?」
「あー、だったら、またメシゴチろうか。そのほうがいいかな」
「いえ、千円でいいです」
「どうして?」
あなたと食事に行ったことが誰かに知られたら、えらい目に遭う――とは言えないので、ここは自虐してでもかわさねばならない。
「前に言った通り、旅行によく行くので、お金のほうがありがたいです」
「……なるほど。わかった。じゃあ、千円で。家に着いたら渡すよ」
「ありがとうございます」
会話がひと段落着いたところで、沙也の住むハイツに到着した。そして黒崎が財布から千円を取り出し、差し出してくる。沙也は礼を言ってその千円を受け取った。
では、と言って降りようとした時――ぐう! と大きな挨拶が車内に響き渡った。
「あ、ごめん。昼抜いたもんで」
黒崎が腹をさすりながら言った。
「ウチでなんか食べていきます?」
しまった! と思ってももう遅い。考えるよりも先に口が動いてしまっていた。
「でも、一週間いかなったから、冷凍ものを使った料理しかできないですけど」
内心で、断れ断れ、と自分で誘っておきながら唱えてみるが、黒崎の返事は――
「それはありがたい」
だった。がっくり。
結局、沙也は先に降りて料理の準備にかかり、黒崎は近所のコインパーキングに車を置いてからやってきた。
ごはんはレトルトだ。調理しやすいように切り分けて冷凍している鶏肉や野菜、キノコを水に入れて火にかける。ずいぶんと具だくさんだ。細粒のかつおだしを入れて湧くまで待ち、その間にミックスビーンズにドレッシングをかけてサラダにし、鯖や角煮の缶詰を皿に盛った。
そこに黒崎がやってきた。
「わ、本格的だ。でも、神南さんの分は?」
ローテーブルに並んでいるのは一人分だけだ。
「私はお昼しっかり食べたのでまだお腹空いてないんですよ。でも、レトルトと缶詰なんで、お店に行かれたほうがよかったかもですねぇ。あ、黒崎さんはお味噌に好みはありますか?」
「好み?」
「白みそが好きとか、赤味噌がいいとか、甘いのがいいとか辛いのがいいとか、これが苦手とか」
「いや、ないけど。なんでもOK」
「んー、だったら、信州味噌にしようかな。白みそを少し加えてもいいかも」
沙也は四台ある小型の冷蔵庫の一つを開けて、中から二つ取り出した。それぞれを鍋に溶かす。
「どうぞ」
「おー、いい匂い。うまそう。いただきます」
味噌汁から口に入れた黒崎は、目を大きく見開いた。
「うまい!」
「そうですか? ならよかったです」
沙也は礼を言いながら、コーヒーの準備をしている。円形のコーヒーミルに豆を入れ、ゆっくりとハンドルを回して挽く。それを黒崎はまた驚いたように食べながら見ている。
「コーヒー、挽くところから?」
「そのほうが断然おいしいでしょ」
「…………」
「それに、食事のほうがかなり手抜きなんで」
「いやいや、これ、おいしいよ。それに缶詰はバカにできない」
挽き終えたらサーバーにセットし、少量の湯でしっかり蒸らしてから、ゆっくりと湯を落とす。挽いた時にもいい香りがしたが、湯を注いで豆がひらいてからの香りも格別だ。
それをじっと見ている黒崎が、ぽつんと言った。
「やっぱ、なんかご馳走するよ」
「え?」
「味噌が好きなら、料亭とか」
「急にどうしたんです? いいですよ、そんな気を遣わなくても。あんまりお礼と言われるとこちらが恐縮しちゃうんで、フランソワーズには千円、この食事には家まで送ってもらったってことで、チャラってことにしてください」
「……そう。わかった」
黒崎はあっという間に食べ終え、淹れたてのコーヒーを飲んだら帰っていった。
それを見送った沙也は――
(誘われても困る。社内の激モテ男と下手に距離が縮まるのは、身の危険を感じる。それだけは勘弁。だけど……なんかちょっとしょぼんとしてたようにも見えたんだけど。冷たかったかな?)
なんて思う沙也だった。