仮面夫婦のはずが、怜悧な外科医は政略妻への独占愛を容赦しない
第二章 抗いたい心
トクトクと胸の奥から優しい音がする。
おそらく、杏からあんな愛らしい笑顔を向けられたせいだろうと、大知は車を走りながら考えていた。
交通外傷で入院していた患者が急変したという連絡に、大知は少し動揺していたが、杏のお陰で落ち着いた気もする。
杏にはふんわりとした癒しの雰囲気があり、杏の顔を見ればいつもホッとした。それはずいぶん昔から。
杏のことは小学生のころから知っている。北条病院の開院祝いの席で知り合い、それからは年に数回程度会う機会があった。
最初はただの子どもだと思っていたが、杏は会うたびに大人っぽくなっていき、儚げな可憐なお嬢さんに育った。手を出してはいけない、観賞用とされるものに近い。そんな存在だった。そんな杏に会えるのを、大知は密かに楽しみにしていた。
とはいえ、そんなことを言えば嫌われてしまうかもしれないと思い、口にしたことはない。なにせ、大知は自分の大きな図体と、愛想笑いの一つもできない自分にコンプレックスを抱いていたからだ。だから杏に易々と近づくこともできなかった。
開院祝いの場で、鯉を見ていた杏に近づいたのは、危なっかしかったから。案の定、杏は足を滑らせ、池に落ちるところだった。
杏を助けることができて、心から安堵したのを今も覚えている。杏はきっとそんな些細なこと、覚えていないだろうが。
あの日から数日後、クリーニング代を渡しに杏と明が大知の家にやってきた。
何度も、ごめんなさいとありがとうを繰り返す杏に大知は「気にしなくていいと言ったのに」と口にした。それを聞いた杏は、シュンと花がしぼむように俯いた。
杏が帰ったあと、もっと優しく言えばよかったと猛反省したのは言うまでもない。
けれど、それからというもの、杏は会食で会う度、必ず話しかけてきた。異業種が集まるパーティーや、医師会会長の誕生日会。拓郎の還暦祝いにも来ていた気がする。
『大知さん、こんにちは』
『私、臨床心理士になることにしたんです』
一言二言の他愛もない世間話だが、一生懸命話す杏を、大知は微笑ましい気持ちで見ていた。