仮面夫婦のはずが、怜悧な外科医は政略妻への独占愛を容赦しない
その日の夕方、大知は製薬会社との面会の約束も振り切り、自宅へと急いだ。杏があんなメッセージを送ってくるなんて、ただごとではないと悟ったのだ。
大手デベロッパーのマンションが立ち並ぶ湾岸エリア。敷地内にショッピングモールがあり、便利で治安もよく、入籍と同時にタワーマンションの一室を購入した。
仕事が忙しく、なかなか自宅に帰ることはかなわないとわかっていたが、まだ大学院生である杏の安全も買えると思い、即決した。
内見の際、杏はベランダに出て、海が見えるとはしゃいでいた。すごく嬉しそうにしていて、あの笑顔は今も覚えている。けれど、あれ以来、見ていないことに気づく。
大知はある疑心を抱きつつ、玄関のドアを開けた。
「ただいま」
中にはいるとすぐ、杏と視線が合った。まさか玄関にいるとは思わず、大知の心に一瞬動揺が走る。
「おかえりなさい。早かったですね」
「あぁ」
なんだか空気が重い。しかも玄関先で待っているなんて、いったいどういうことだ。何時頃帰るかも、伝えていなかったのに。
「大知さん」
クリっとした二重の目を向け、杏が恭しく近づいてくる。
二十四歳だが、童顔のせいかまだあどけなさが残ってる。肩まである柔らかそうな栗色の髪が揺れていて、身長は、一八〇センチの長身の大知より、三十センチは低いだろうか。風圧だけで飛んでいってしまいそうなほど華奢で、肌はろうを塗ったように白い。出会った当初と変わらず、儚げな花という例えが似つかわしい。
思わず見入っていると、杏の手に握られた紙切れに目が留まった。あれはいったい……?
大知の口元が、無意識に強張る。するとその刹那、ひどく神妙な顔つきで、杏が口を開いた。
「私と、離婚してください」