暗い暗い海の底
「あ、主任の。あのときは、ありがとうございました」

「あなたは濡れてばかりですね」
 私がそうやって笑えば。

「そう言われれば、そうかも」
 彼が年齢よりも幼く見えたのは、その砕けた言葉遣いのせいだろう。

「そのままでは風邪をひいてしまいます。私の家がすぐそこですから」

 なぜか私はそう声をかけてしまった。だがこれは、夫の意思に反すること。夫に見つかればまた殴られる。だから、見つからないようにすればいいのだ。

 だが彼は、主任の妻という私の立場で安心したのかもしれない。家に行けば恐らく知っている上司がいるから、と。

「実は、主任の家に遊びに行きたかったんですよね。新婚さんで新築さんって聞いていたから。だけど主任は絶対に来るなってしか言わないし。あのバーベキューの後も、主任の家で二次会やりたいと言ったんですけど、断られました」
 あはっと、いたずらを仕掛けた子供のような笑い方をする。その笑顔に、ドキっと私の心が跳ねた。無邪気な大人。大人になりきれていない大人。

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