Dear my girl

 呆然としているうち、手を握られた。

 咄嗟のことで、声も出なかった。
 店内のスタッフたちがヒュッと息を飲む。

 先輩が奥の厨房へ走って行った。店長を呼びに行ってくれたのかもしれない。

 そのことに少しだけ安堵したのもつかの間、王子はにっこりと微笑んだ。
 握る手に力を込められ、ゾッとする。

「たまにはこんな子もいいかな。今度うちに遊びに来ない?」

「や……、」

 手を引いても、全然びくともしなくて、恐怖心が募っていく。
 嫌悪感が背中を駆け巡り、膝ががくがくと震えた。

「……いや、です。離してください……、はなして」

「震えちゃって、可愛いね」


 ――引っ越してきたばかりなの? きみ、可愛いね。
 

 昔のことを思い出して、急に耳が詰まった。


 気持ち悪い。
 一孝以外にこの言葉を言われると、恐怖でしかなかった。


 全身から血の気が引いていくのを感じていると、ドアベルが鳴る音がした。
 

「うあ……っ!」

 掴まれた手の感触が消える。

 王子の手首をぎりぎり掴んでいる男の人を見て、沙也子は信じられない気持ちであんぐりと口を開けた。
 
 涼元一孝は、凍てつくような目で王子を見下ろすと、淡々と言った。

「てめぇみたいなのを、迷惑防止条例違反っていうんだよ、クソが。『公共の場所または公共の乗物において、身に着ける物の上からまたは直接身体に触れることの禁止。1年以下の懲役または100万円以下の罰金』」

「……は? えっ? な、な、なに言ってるんだ。なんだよお前、離せよ!」
 
 身体をバタつかせる王子をものともせず、一孝はテーブルを眺めた。自撮り用に立てられたスマホに目をとめる。

 片目を細めた彼は、空いている方の手で自分のスマホを取り出し、何度か親指を滑らせた。

「……これか。パンケーキ王子、動画登録者数3万人、SNSフォロワー数14500人」

 画面を見ながら、すらすらと情報を読み上げる。

「本名 権田茂雄。都内商社勤務……、掲示板にも書かれてんじゃん。店員のお持ち帰りの常習犯。悪質なナンパの噂?」

 一孝はスマホから王子に視線を移し、「へえー」と薄く笑った。

「つか、スーツに付けてるその社章、」

「ち、違うんです! ぼ、僕は、このパンケーキの素晴らしさを伝えようとしただけで! も、もちろん美味しかったです!」

 王子は顔を紙のように白くさせて、がたがたと震えた。

「ぼ、僕、彼女にはお会計をお願いしようと思って、つい……いえ、他のスタッフさんでもいいかな。す、すみませーん」

「……はーい」

 王子はそそくさと会計に立ち、途中から成り行きを見ていた店長が冷ややかな顔つきで対応する。

 一孝は小さく舌打ちし、出口に向かいかけたが、ぴたっと足を止めた。
 しばらく立ち止まり、やがて近くの席にすとんと座った。

 このまま出て行くのは悪いと思ったらしい……。

「……メニューください」

「は……はい。いらっしゃいませ」

 ラストオーダーまで時間があったので、沙也子は一孝にお水とメニューを渡した。
 彼はこちらを見ることなく受け取り――、深々と息を吐き出した。

「……言ったところで真実味ゼロだろうが、いつも見てたわけじゃない。今日初めて、本当にたまたま、さっき来たところで……」

 とつとつと言い訳する一孝が微笑ましくて、沙也子は「ふふっ」と噴き出した。

「うん、今日来てくれてよかった。助けてくれて、ありがとう」

 一孝は絶対に嘘はつかない。
 昨日までは確かにバイトだったはずだし、本当に先ほど初めてこっそり様子を見に来てくれたのだろう。

 でも、今はそれよりも。
 ここはメルヘンの世界。

「涼元くん、すごく浮いてるよ」

「……言うなよ。意識がぶっ飛びそうなんだ」

 こめかみに汗までかいている。
 沙也子は笑ってしまった。

 一孝が生涯縁のなさそうなこのお店に、沙也子のために入って来てくれたことが嬉しかった。
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