Dear my girl
落ち着いたのか、一孝はそっと沙也子を離した。
ベンチに背を預け、もう一度深く息を吐き出した。沙也子の手を強く握ってくる。
彼は前を向いたまま、ぽつりと言った。
「あの日、出会わなければなんて、考えたくもない。母親が出て行って放ったらかしにされた俺は、子供ながらに人生絶望してたし、沙也子に出会うまでは毎日が灰色だった」
一孝から母親の話はほとんど聞いたことがない。
心に深く傷を負った幼稚園の一孝を思い、沙也子は胸が痛いほど締めつけられた。
「さっきまで泣いてたくせに、可愛い笑顔で俺の手をぎゅっと握ったその時、世界に色がついたんだ。理由なんて分かんねえよ。でも、好きなんだ。他の誰にもこんなふうに思ったことない」
一孝は手を握ったまま沙也子に目を向けた。
「周りがどう思おうと、沙也子がどう思おうと、俺のことは俺が決める。俺は自分の持てる力全部使って沙也子を幸せにするつもりだし」
そこで一孝は視線を外し、繋いだ手をじっと見つめた。
「……もし……、考えたくねえけど、万が一、沙也子が他に心変わりしたとしても、ずっと好きでいる確信がある。それでもずっと近くにいて、早く別れねえかなって虎視眈々と狙う自分が見える……やべぇ、考えただけで吐きそう」
「わ、分かった、分かったから」
本気で彼の顔色が悪くなってしまい、沙也子は慌てて一孝の手を握り直した。
「それこそ、あり得ないよ。わたし……男の人と付き合うなんて無理だと思ってたし。涼元くん以外の人なんて、考えられないもん。でも、自分に自信がなくて、涼元くんにはもっといい人が……って少し思っちゃったの。本当にごめんね。もうそんなこと考えないから。市村さんのことも、もう気にしない」
「市村?」
つい言ってしまい、沙也子はハッと口を押さえた。
一孝が眉根を寄せている。
沙也子は迷ったが、もともと訊いてみるつもりではあった。きっと今が、お互いにいろいろ吐き出すタイミングなのだ。
「理学部の市村さん。涼元くんに告白するって言われたの。それで……」
沙也子が上目で窺うと、一孝は沙也子がなぜ悩んでいたか分かったようだった。苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちする。
「されてねぇよ。ほとんど口きいてねえし」
「……そうなの?」
「うん、沙也子は何も心配しなくていい」
確かに一孝の想いは十二分に伝わってきた。
もしかしたら、告白はこれからなのかもしれないけれど、沙也子はもう大丈夫だと思えた。
ようやく呼吸が楽になった気持ちになり、沙也子は一孝に向かってはにかんだ。
「ヤキモチ焼いて、勝手に不安になっててごめんね。涼元くんの気持ち、すごく嬉しかった」
「ヤキモチ……? 沙也子が?」
あらためて確認されると恥ずかしくて、沙也子は顔を赤らめて頷いた。
「うん。さっきもお店で見かけた時、すごくもやもやした」
一孝は何かに耐えるみたいに、ぐっと息を詰めた。
「涼元くん?」
「くそっ やっぱ家で話せばよかった」
立ち上がった一孝は、食べ終わったパンの袋をゴミ箱に入れた。沙也子の手を取って歩き出す。
「もう帰るの?」
「すぐに。公園気に入ったなら、また今度来よう」
沙也子は突然のことに戸惑いながらも、まあいいかと彼の後について行った。