Dear my girl
怖い、と思った。
父親のぬくもりは覚えていなくて。大好きな母も、優しかった祖母ももういない。
その上、このひとを失ったらどうなってしまうのだろう。
外気は汗をかくほど蒸し暑いのに、温泉であたたまったはずの指先が冷えていく。
カランと下駄の音が耳に響き、沙也子は我に返った。
「な、何言ってんだって感じだよね。ごめんね、せっかく連れてきてくれたのに、こんな暗いこと言って」
急いで謝り、えへへと笑って誤魔化した。
一孝は何かを探すように辺りを見回し、沙也子の手を引いた。
「ちょっと座ろう。沙也子、こっち」
土産物屋が立ち並ぶ路を少し離れ、小さな川沿いのベンチに座る。
人通りはなく、趣深い小川のせせらぎに耳を傾けていると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
横目で沙也子を見た一孝は、少しためらった様子で口を開いた。
「この間、俺の進路を奪ってるんじゃないかって、もっといい人がいるんじゃないかって言ってたよな」
「うん……、ごめん」
気にしているのかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
沙也子の手を握った一孝は、「そうじゃねえよ」と言った。
「沙也子の未来を狭めてるのは俺のほうだ。親父が保護した形とはいえ、囲うようにうちに連れてきた。お前には他に選択肢がなかった」
沙也子は驚き、鋭く息を吸い込んだ。
涙が出そうだった。
「そんな! そんなふうに思ってないよ。助けてもらって本当に感謝してるし、わたしは、涼元くんだからこそ、落ち着いて生活できたんだもん。他の誰かだったら……なんて、考えたくないよ」
一生懸命言い募ると、一孝は分かっていると言いたげに微笑んだ。それから、わずかに視線を外す。
「もし、沙也子が引越した先で、何も辛いことが起こらなかったら……沙也子は何の不安も抱くことなく笑って過ごして、今お前の隣にいる男は俺じゃないかもしれねぇ。そう考えたこともあるけど、そこに意味はないと思った。起こったことは、なかったことにできない。俺はこれからのことを考えていきたい」
起こった出来事は、なかったことにはできない。
沙也子が何度となく自分に言い聞かせてきた言葉だった。
滲む視界で瞬きを繰り返し、沙也子は言葉の続きを待った。
「何が言いたいかっつーと……沙也子が俺の気持ちを受け入れてくれた時、思ったんだ。俺は絶対に生きる。沙也子を必ず一人にはさせない。絶対に、もう一人にはしない」
小さな川が、さらさらと優しい音を立てて流れていく。
ひとりぼっちは寂しい。
胸が痛むほど分かっていたはずなのに、自分のことばかりだった。
彼の目の前から消えたのは、沙也子の方だったのに。
「わたしも」
沙也子は潤んだ瞳で微笑んだ。
「涼元くんを、もう絶対に一人にしたくないよ。これからだって、もっと涼元くんのこと知りたいし、いろんなことをたくさん話したい。ずっと、ずっと一緒にいたいよ」
言い切ってしまうと、とてもすっきりした気分だった。
そんな沙也子とは逆に、一孝は複雑そうな顔をしていた。
「またそうやって、人のセリフ奪う……」
悔しそうに言うので、沙也子は笑ってしまった。
頬をきゅっと摘まれる。
それから、ゆっくりと顔が近づいてきて、沙也子は目を閉じた。
きっとこの先、何度も不安はやってくる。
それでもいい。いつだって答えは1つだと教えてくれた。
一孝は沙也子の暗い空虚ごと、丸ごと全部受けとめてくれるのだから。
そして、沙也子も一孝にとってそうありたい。
支えられるだけではなく、支えたい。
そう強く思った。