Dear my girl
* * *
すでにテスト勉強の必要はなく、大学入試の過去問を目で追っていた一孝は、「涼元くん。ちょっといいかな」という声にシャーペンを置いた。
夕食後のダイニングテーブル。斜め向かいに座っている沙也子が示したページは、微分係数の極限値を求める問題だった。だいぶ格闘していたようで、ノートにはたくさんの解きかけの式が書かれている。
「ああ、それはこっちの式」
ノートに書きつけてやっても、沙也子は一孝の手をぼんやり見ているだけだった。
(? 説明が分かりにくかったか……?)
聞いているか確認すると、彼女はあわてて自分のノートに書き写した。解き方が見えたのか、ぱっと顔を輝かせる。
ありがとう、とふんわり微笑み、再び問題を解き始めた。
一孝はそっと息を吐いた。
まったく意識されないのも複雑な気持ちだが、それでも怯えられるよりはマシなのだった。
一孝は沙也子との距離感を慎重に測っていた。
彼女が男性恐怖症なのは知っていたので、あまり家にいないほうがいいと思い、できるだけバイトのシフトを突っ込んだ。少しずつこの生活に慣れて、少しずつ自分に慣れてくれればいいと。
時々、思い出したように辛そうにする沙也子を知っている。抱きしめて、自分がそばにいると言えないのがもどかしかった。
深夜にアニメを見た日の沙也子は、ことさら朝から様子がおかしかった。訊くのもはばかられる雰囲気で、一孝は気になって夜中まで起きていたのだが、本当によかったと思う。
暗い真夜中に、沙也子を一人にしないですんだから。
沙也子がリビングで勉強していたことは、一孝にとってミラクル級のラッキーだった。
なんでも頼ってほしいのに、沙也子は最初から自分でなんとかしようとしてしまう。だから、彼女のノートを見たとき、チャンスだと思った。初めて自分の取り柄に感謝した。
とにかく役に立ちたかったし、沙也子に必要とされたかった。
「何度もごめん。ここなんだけど……」
沙也子がノートを見せながら、ひょこっと身を乗り出してくる。甘い香りが鼻孔をくすぐり、胸が一瞬にして高鳴った。
一生懸命こちらに耳を傾ける沙也子に、このまま想いを告げてしまえば……と、理性が揺らぎそうになる。
今好きだと告げたところで、困らせるか、怯えて避けられるか……。どちらにしろ、いい結果は想像できなかった。
下心を知られて、沙也子の顔が怯えと失望に歪むのは見たくない。じっと見つめてくる瞳には少しの曇りもなく、沙也子はきっと一孝を信頼している。
今の一孝にできることは、沙也子を守り、無事に大学に合格させること。自分はどこでもいいと思っているので、同じ大学を志望するつもりだ。
それまでにはもっと距離を縮めて、関係だって進展させたいと思っている。
先はなげえな、とため息がこぼれ落ちそうになるが、今さらだった。
元から長期戦は覚悟の上だ。
昔も今もこれからも。沙也子しか考えられないのだから。