Dear my girl
「なにもって?」
カップにふうと息を吹きかけていた沙也子は、首をかしげた。律が少し身を乗り出してくる。
「あいつだって男なわけだし、手を出されたりしてない?」
「ええっ」
ぎょっとして思わず手が滑りそうになり、あわててカップをソーサーに置いた。ガチャっと大きな音を立て、紅茶が少しこぼれる。
「その反応……、もしかして」
「ないない、ないから。あるわけない」
紙ナプキンでテーブルを拭きながら、沙也子はぶんぶん首を振った。
苦笑した律は、さらに続けた。
「そこまで否定しなくても。沙也子にとって、涼元はナシなの?」
律が沙也子の状況を心配するのも分かるし、恋が生まれるのではとわくわくする気持ちも分かる。
でも、そんなことがあり得るわけがない。邪推された一孝にだって悪いと思う。
どうしてあり得ないのか律に説明するのは、けっこう勇気のいることだった。心配をかけたくないというのもある。
店内は混みあっていて、誰もが会話とパンケーキに夢中だ。こちらを気にする人は一人もいない。それでも沙也子は、声のトーンを落とした。
「……アリとかナシとかじゃなくて、ただの幼馴染だもん。涼元くんだって、わざわざわたしなんか相手にしないよ。他にもっといい人いっぱいいるだろうし」
起こってしまった出来事は、なかったことにはできない。
気持ち悪い感触は、いつまでたっても消えてなくならない。
今の自分が男性と普通に付き合えるとは思えないし、一孝が沙也子に気を配ってくれるのは、幼馴染だからだ。
でも、彼が本当のことを知ったらどうなるか分からない。もちろん恋愛対象にだってなるわけがない。
だから、好きになったりしないように、気をつけているのに。
「うーん、そうかなあ」
律は解せないというように腕を組んだ。
「沙也子が転校してきたとき、黒川に食ってかかってたじゃん。他でもない沙也子だったからじゃない?」
「それは、わたしが男の人が怖いって言ったから、」
勢いで言ってから、ハッとなった。まずいと思ったときには遅く、律が驚きに目を瞠っている。
沙也子は唇を噛んで逡巡し、一孝に説明したように律にも同じことを話した。
なるべく控えめに、重くならないように気をつけたつもりだったが、律は言葉を失っていた。
沙也子は努めて明るい声を出した。
「それで涼元くんは気にしてくれただけなの。でもあれじゃあ、本当は優しいのにますます誤解されちゃうから。ひとまず忘れてって言ったんだ。本当は、そんなに気にすることじゃないんだよ。言わなきゃよかったって後悔してる」
「そうだったんだ。さっきから無神経なこと言ってごめん」
沙也子の意を汲んだのか、律は気を取り直したようにさらりと言った。
青ざめた顔をしていたのに、なんてことのないふうを装ってくれるのがありがたかった。
「そんな、全然。だって、言ってなかったんだし。ところでさ」
沙也子は座り直して、律に向かって微笑んだ。そんなことより、相談したいことがあったのだ。
「涼元くん、来月誕生日なんだけど、お礼も兼ねてプレゼント渡したいんだ。選ぶの付き合ってくれないかな」
瞬いた律は、それからやわらかく微笑み、沙也子に向かって親指を立てた。