君の香りに囚われて
それからは大学の授業がない時はマンションに行くようになった。
ティンは仕事の合間に寸暇を惜しんでマンションに寄って苺花に会うという日々を過ごしていた。
ティンと色々な話をする。
芸能人ってもっと派手な生活をしているのかと勝手に思っていたけど、ティンは毎日朝から晩まで仕事をして、家に帰ったら寝るだけのような話をしていた。
仕事に真摯に向き合い、一般人よりもストイックな生活をしているようだった。
苺花は自分の日々の生活の話をした。
一般人の日常。
学校の話、親友である詩の話など。
ごくごく普通の話。
きっと聞いていてもそんなに面白くはないんじゃないかな?という話。
だけど普通の生活を知らないティンはどの話も興味深そうで、食い入る様に聞いていた。
他愛もない話をすることで、ストレスの発散につながっているのか、顔色もとても良く体調も精神面も安定しているようだった。
ティンのリクエストで日本の家庭料理を作ってあげることもあった。
食が細くて物凄く偏食ということを聞いていたのだけど、苺花が作るどの料理も美味しいと喜んでくれてちゃんと食べてくれた。
これには浮き沈みの激しいティンに振り回されっぱなしだったマネージャー達も感心した上に、ホッと一安心という感じで誰もその行動を制限しようとはしなかった。
いつも食事をさせることが大変だった上に『あの気難しいティン』の相手が出来る人がいるなんて!
と驚かれつつ感謝もされているようだった。
スキャンダルとか気にしないのかな。
と、苺花は心配したけれど、
今までのティンを見てきたマネージャー達にとっては、
他人をそう簡単に受け入れないティンのスキャンダルなんてあり得ない!!
と思っている様だった。
そうだったんだ、、、。
今までの大変さがなんとなく分かるような感じがして、マネージャーの皆さんに同情してしまう。
一緒にいる時はそんな気難しさなんて全然感じない。
なによりとても苺花に心を許しているようだったから。
苺花は韓国料理店のバイト方には全然行くことができなかったが、ヨルさんの仕事の手伝いをしているということがバイト先に通達されていた。
苺花以外にも韓国料理店から他の仕事に移動する人材が何人もいたので誰も不思議には思わなかった様だった。
普段の仕事ぶりからヨルさんが判断して違う職種を勧めたりするそうだ。
また、照山さんも詩も苺花がヨルさんに好意を寄せていることを承知だったのでそちらからも何も言ってくることがなかった。
マンションにいる時のティンは苺花に甘えるような仕草を見せたり、終始リラックスしていた。
男の人が苦手だった苺花もいつの間にか緊張せずに過ごすことができていた。
会話を交わすこと以外にも、苺花が作った料理を一緒に食べたり、英語の勉強しようってソファに並んで座って映画を鑑賞したり、ティンに韓国語を教えてもらったり、と2人でいることが自然になってきてお互いに飽きることがなかった。
「俺のことは名前で呼んで。
さんとか絶対つけないでね。
敬語も絶対だめ。
同じ歳なんだし。
苺花だけは特別だよ。」
なんて可愛い笑顔で初めの頃に言われてしまったので、苺花も躊躇いつつも『ティン』と呼び捨てにしていた。
ティンは小さくて可愛い物が大好きだった。
だけど、ティンのクールなイメージを守るため、『可愛い物が大好き』というのは公にしていなかった。
でも自分の好きなものは変わらない。
隠していても隠しきれない。
小さくて可愛い苺花。
ひと目見た時から気に入っていた。
苺花を見ていると実家で飼っていた白い小型犬が脳裏に浮かんでくる。
名前はクム。
韓国語で夢という意味。
クムは大きい瞳にいつもティンを映していた。
どこに行くにも一緒で、夜も同じベッドで寝ていた。
合宿所に入る時、クムと離れ難くて、よく似ている犬のぬいぐるみを連れていったんだった。
夢のためにクムを置いてけぼりにしたんだ。
そういえばあのぬいぐるみはどうしたんだっけ。
いつの間にか見かけなくなった。
すっかり忘れていた。
急に思い出して恋しくなる。
ぬいぐるみもそうだけど、クムにもう一度だけ会いたいな。
クムの濡れた大きな瞳。
見上げてくる苺花の瞳に似ていた。
クムを抱きしめるみたいに、本当は小さくて可愛い苺花を自分の腕に閉じ込めて、ゆっくりとその匂いを胸いっぱいに吸い込みたいという衝動が常にあった。
あったけど、、、
以前の失敗があるので精一杯我慢をしていたのだった。
今まで異性に対してその様な感情を抱いたことがなかったティン。
自分でも苺花に対するこの支配欲みたいなものに少し戸惑っていたが、
それ以上にニコニコと話をする苺花が愛おしくて仕方がなかったのだ。
自分見つめる瞳。
大きくてキラキラしてる。
星が宿っている。
いつまでも見つめていたい。
そう思っていた。
リビングのカーテンから差し込む日差しがオレンジ色になってきた。
仕事の時間になり、ティンの携帯電話のコールが鳴る。
追い立てられるような気分になって、ティンが不機嫌そうに盛大にため息をつく。
それを、隠そうとはしない。
付き合いの浅い苺花でもその不機嫌な様子にちょっと怖くなる。
...雰囲気が全然違う!
これはマネージャーさんたち毎日大変だよね。
と簡単に想像できてしまった。
「もう行かなくちゃいけないのか。
苺花、また明日来てね。」
ティンが苺花の髪を優しく撫でる。
そして人差し指で髪を一房掬いあげて唇をつける。
そのまま頬も人差し指でそうっと撫でる。
名残惜しそうに。
ヨルさんの匂いを消して自分の匂いをつけようとしている様に感じた。
ティンは特異体質ではないから、苺花に匂いをつけることは絶対にできない。
分かっていても、自分の匂いをつけたい様だった。
マンションに来るたびに毎回繰り返される行為なのだが、苺花は慣れることができずに戸惑い、身体を硬くする。
「俺の国では親しい間柄ならこのくらいのスキンシップは普通だよ。
ヨル兄さんだってそうでしょ?」
なんて言われていても、ティンに触れられると緊張してしまう。
その様子に
「まだまだだな。」
とティンが小さく呟く。
しばらくしてから苺花から手を離し玄関に向かう。
「いってらっしゃい。」
苺花がぎこちない笑顔で手を振り玄関まで見送る。
その手をティンがそっと握ってくる。
ティンのスキンシップはさりげないけれど、そこから感情が流れ込んでくるようで苺花はいつも思わず力を入れてこれ以上侵入されない様に防御しようとしてしまう。
ティンが切なそうな笑顔を向けてエレベーターに乗り込んで出掛けていった。
いってらっしゃいか、
すごく良い響きだな。
とエレベーターの中で思わず呟いていた。