君の香りに囚われて
今日の夜は詩の家で過ごす約束をしていた。
また仕事に出かけるのにぐずっていたティンを優しく宥めて送り出してから、使った食器を片付けて、自分の荷物を持ちマンションを後にする。
オートロックなので鍵の心配をしなくても大丈夫。
夜遅くなる時などはコンシェルジュの方にお願いしてタクシーを呼んでもらうこともあった。
ヨルさんとティンが苺花の帰りをとても心配するからだった。
でも今日はまだ時間が早かったので、電車で帰ることにした。
ティンに会って話をするというのは、バイトらしいバイトをしていないようだが、苺花の時間を拘束しているし、ティンのカウンセリングをしてもらっているようなものだから、とヨルさんから交通費とバイト代が口座に振り込まれていた。
そのバイト代で詩の家族にお土産を買う。
自分の自由になるお金が増えるって嬉しいことだよね。
最近は洋服を買う機会も増え、詩のようにはなれないけれど、少しおしゃれもできるようになった。
ヨルさんのおかげで心配なく買い物に行けるようになったんだ。
ヨルさんのおかげ。
歩きながら考える。
ヨルさんへの気持ちが心の中でぐるぐると渦を巻いている。
ヨルさんに会いたい。
ヨルさんのことを考える時、身体の中をキューンっと愛しさが走りぬけるようだった。
ティンとは2人で会うようになったので、仕事が多忙なヨルさんとは会えなくなっていた。
バイトに行ってた時は毎回会えていたのだけど。
自分の感情の揺らぎを感じる。
今までにないことだった。
仕方のないこととはいえ、寂しい。
そして同時に自分の小さかった頃を思い出していた。
窓の外が暗くなってきてお母さんがなかなか帰ってこない夕暮れ。
こんな風に寂しくてよく泣いていた。
あの頃はお母さんがいない時はシッターさんがついていてくれていた。
家事や料理もシッターさんのお手伝いをしながら色々と教えてもらってきたんだ。
シッターさんはみんな優しかったけれど、やっぱりお母さんが側にいないのは寂しいものだった。
思い出して鼻の奥がツンとして、苺花はハンカチで涙をそっと拭った。
電車の窓から空を見上げる。
西日が眩しかった。
詩の家に着いてお母さんに挨拶してお土産を渡す。
お母さんがとても喜んでくれた。
喜んでくれる姿はこちらも見ていて嬉しくなる。
詩のお母さんの好きなものはちゃんと知っているからね。
詩の部屋でマカロンクッションを抱えて座る。
テレビがついている。
今日は詩の好きな音楽番組の日だった。
お菓子を食べながら他愛もないお喋りをする。
「最近はヨルさんといるみたいだけどどんな仕事してるの?」
と聞かれる。
何て説明したら良いんだろう。
「うーーーん、仕事内容かー。」
って苺花が悩んでいると
テレビ画面にティンが映った。
「あっ!!」
思わず大きな声が出てしまう。
詩も画面に目をやる。
「あーティン!
あれ、なんかいつもと雰囲気が違くない?」
詩の言う通り。
いつもテレビに映るティンは儚げ、というか彼を知った今はそれが上の空なんだということに気がつく。
メンバーが話している時も心ここに在らずという感じ。
いつもマイクを持たなかったので、トークの中は特に存在感が薄かった。
なのに今日は瞳の輝きが違う。
普段は絶対に見せないような笑顔もアップになって映っていた。
ちゃんとメンバーの一員として行動している感じでメンバー達もいつも以上に仲が良く見えた。
「ねえ、何か知ってるんでしょ?
ティンのこの表情。
苺花に関係があるんでしょ?」
真面目な顔をして詩が聞いてくる。
詩にはやっぱり隠し事はできなかった。
最近のヨルさんと一緒だとされている仕事の内容を全部話すことになったのだった。
もちろん誰にも話さないでね、
て釘を刺す。
詩だから話すんだからねって。
詩に話している間にティンのグループがパフォーマンスをしていた。
激しいダンスをしながら歌う。
ずっと続いていたティンの不調のせいでテレビでは激しいダンスを披露することが少なくなっていたのだが、今日はいつもと違う内容で素晴らしいステージだった。
ステージを見ているお客さんたちはもちろん、司会者や共演者たちも興奮し立ち上がって一緒になって踊っている。
その日のSNSは「氷の王子の笑顔」「ティンの復活」というワードがトレンド入りするほど大騒ぎとなったようだった。
きっとヨルさんもこの放送を見ているはず。
そして、ホッとしながら喜んでいるだろうな、、、
よかった。
と苺花はため息をついた。
ティンはあとどのくらい日本に滞在するのかな。
コンサートをして、音楽番組もいくつか出演するという話だけはティンから聞いていた。
それが無事に終わったら私の役目は終わるのかしら。
期間限定の話し相手。
ティンは違う世界の住人。
出演者が変わったテレビの画面をぼんやり見ながら苺花は物思いにふける。
先ほどの寂しさを引きずっているのか、それほど遠くない別れに心が揺さぶられていた。
詩はヨルさんが自分の考えについて苺花にちゃんと話した様で安堵していた。
苺花の気持ちを知っていながら、その気持ちを利用するようにティンに引き会わされて、いいように使われたらどうしようと思っていたからだった。
ヨルさんが悪い人じゃなくてよかった。
バイト中に見せるあのいつもの優しい笑顔のヨルさんが本質だと信じていいんだよね。
何より苺花の放つ匂いから自分の匂いで守ってくれていた。
苺花にヨルさんが構う理由も納得がいくものだった。
それは感謝しなくちゃいけない。
まだまだ油断できない気もするけど、、、。
照ちゃんと一緒にこれからも苺花を見守らないと。
口には出さなかったが、心の中でそっと決心を固めていた。