君の香りに囚われて
コンサートが全公演終了して、ティンが1ヶ月の休暇に入ることになった。
他のメンバー達は当初の計画通り、旅行に出かけたり、早めに韓国に帰国したりそれぞれバラバラな行動となった。
ティンは休暇中ギリギリまで日本に滞在することを選択した。
もちろん苺花と一緒にいるためだった。
その頃ヨルさんは、自分のオフィスの机で物思いに耽りながらフッとため息をついていた。
都内のオフィス街の中にある高層ビル。
このビル全てがヨルさんの勤めている会社の管理する物件だった。
高層階にティンの芸能事務所と提携を結んでいる日本の芸能事務所がある。
ティン達は日本滞在の間はこの事務所からサポートを受けることになっている。
ティンのグループ担当。
ヨルさんはその責任の一端も担っているのだ。
『ここまでは。
扱いづらいティンをうまく操縦できている。』
と思っていた。
テレビ出演もコンサートも苺花のお陰で劇的な変化があったからだった。
それも期待していた以上に。
大成功と言ってもいい。
世界進出の前の手応えとしては充分だった。
その一方で、不安も募る。
ティンの心が苺花に傾きすぎているのを感じでいたからだった。
苺花とうまく友人関係が結べることができたら、ティンの精神的な安定と芸能活動の意欲にも弾みがつくだろうと踏んでいたのだが、
あんなに苺花に夢中になるなんて計算外だった。
自分以外には、誰にも心を開いたことがなかったので自惚れてもいたのだ。
彼は神経質でなかなか他人を信用としなかったから。
ただ苺花が、些細なことも全てヨルさんに報告して指示を仰いでくるので、その苺花の冷静さに望みを託すしかなった。
なにより苺花の気持ちは、まだ自分が掌握していると思っている。
このまま苺花をうまく手元に置いて、これからもティンをコントロールするのが今一番最適な方法だと考えていた。
自分の心の中に、彼女に対してはなんとも言い難い感情が生まれていたのだが、今のところそれが何なのか自分でも持て余していた。
そんな自分のことよりも
ティンたちの世界デビューが控えている。
韓国の事務所が大きなプロジェクトとしてプロモーションにもかなりの額を賭けていたからだった。
今は自分がお世話になった事務所に対して恩を返す時なのだ。
だからティンと苺花の関係が明るみになって、スキャンダルになることだけは避けたかった。
ヨルさんの心配をよそに、ティンに呼び出された苺花はマンションに訪れていた。
久しぶりに会うティンに戸惑いと緊張を見せていた苺花だったが、
リビングに入り、美味しそうないい匂いを嗅いでパッと明るい表情になっていた。
キッチンでティンがご機嫌に料理していたのだ。
デニムのエプロンをきちんと身につけている。
「練習生として養成所に入所してから毎日メンバーのみんなで交代で食事を作ってたから得意なんだよ!
いつも苺花に料理を作ってもらってるから、今日は俺の番ね。」
と張り切っていた。
苺花が対面式カウンターの方からちょこっと顔を出してキッチンの中を覗いていた。
ティンの手際の良さに感心する。
「本当に上手だね。美味しそう!」
彩りの良いサラダや海鮮を使ったパスタなどどれも美味しそうだった。
キラキラと目を輝かせる苺花を満面の笑みでティンが見つめる。
「もう出来るから食べようよ。」
とティンが料理を運んでくれる。
ピンク色のシャンパン。
綺麗な色。
炭酸が弾けて爽やかな香りがする。
お昼からお酒を飲むのがすこし罪悪感。
ティンはお酒が大好きなのだそうだ。
メンバーのみんなといつもはコンサートの後に打ち上げをするんだけど、今回はパスしちゃった。
そのくらい早く苺花に会いたかったんだよ。
ティンの屈託のない笑顔。
「やっとゆっくり過ごせるね。
楽しみにしてたんだ。」
エプロンを外してティンがテーブルに着く。
テーブルには花も飾られている。
綺麗に盛り付けられた料理はどれもとても美味しかった。
「メンバーや事務所の人以外とこうやって長い時間一緒にいるのは苺花が初めてだよ。
普段はレッスン場と養成所とスタジオだけしか行かないし。
だから、苺花といると全部が新鮮で新しいんだよ。
カフェでコーヒーを飲んだこともないし、友達と買い物に行ったこともない。
今まで行きたいと思ったこともなかったけど、今は苺花となら行ってみたいと思う。」
寂しそうな顔。
今までの青春時代を全部アーティスト活動に捧げてきた。
一般の同年代の子たちが普通に経験することは全て放棄してきた。
シャンパンのグラスを指先で弄びながらティンが言う。
「え!じゃあ行こうよ!
もう少し外が暗くなってから、ティンの髪の毛染めて、私のメガネ貸してあげるし!
ちょっと出かけちゃおうよ!」
シャンパンでいい気分になっていた苺花がキラキラの目をさらに輝かせる。
ちょっとだけならいいよね。
ほんの少しの社会科見学。
ティンの思い出に残るような。
ヨルさんに言わなくても、、、大丈夫よね。
ふと、頭にヨルさんの顔が浮かんだが、すぐに消した。
ヨルさんに聞いてみたらきっと止められるに決まってるもの。
決まったら行動は早かった。
たくさんのコスメが入っているメイクボックスの中に黒染めのスプレーを見つけて2人で隈なく染めていく。
大きめのシルエットのTシャツにジーンズ。
目立たなそうな洋服を選び、苺花の伊達メガネをかける。
顔が綺麗すぎるしスタイルが良すぎるけど、これできっと少し誤魔化せるよね。
念のためバケットハットも被る。
地下の駐車場から2人でマンションを抜け出し、駅前のコーヒーショップでコーヒーをテイクアウトする。
念のためティンは人の多いところでは声を出さず、帽子も目深に被っている。
それでもオーラがあるのか顔があまり見えなくても人目を惹くようだった。
男女問わずすれ違う人達が振り返る。
女の子たちが
「ねぇ!ねぇ!!今の人見た?
めちゃかっこよくない?」
なんてコソコソと話している声も聞こえてしまった。
後をついてこようとしているみたいだ。
きっとティンの顔を見ようとしてるんだ!
そう思った2人は顔を見合わせてから人通りの多い街を走り抜けていく。
片手にコーヒー。
もう片方は、いつの間にか手を繋いでいた。
「わー!こぼれちゃうよ!!」
そう言いながらも、2人とも笑顔だった。
街灯が灯る街並み。
いつもの見慣れた風景のはずなのに、2人でいるとまるで違う街みたいに輝いて見えた。
かなりの距離を走ってから後ろを振り返り、さっきの子たちがいないか確かめる。
はあはあと息を切らして、そおっと振り返ると、そこには誰もいなかった。
「はーーっ。ドキドキしちゃうね。」
2人で顔を見合わせてふふふと微笑み合う。
初めての経験にティンが興奮しているのがわかった。
とてもいい気分だった。
まだお酒が少し残っているようだ。
そのままティンに手を取られたままぶらぶらと歩く。
少し歩いてから夜景の見える高台の公園のベンチに腰掛ける。
ティンの携帯電話で2人の写真を撮る。
頬を寄せ合ってニッコリと微笑む。
「よく撮れてる。苺花可愛い。」
何枚かの写真を画面で確認してティンが満足そうに微笑む。
他の人から見たらどこにでもいる普通のカップルに見えるだろうな。
2人並んで見る東京の街の夜景はとても輝いて見えた。
夜景と美しいティンの横顔。
誰かに見つかるかもしれないというドキドキとはまた違う胸の高鳴りを感じる。
心臓がキュッと掴まれたような。
コーヒーのカップをベンチの傍らに置いてその手を胸に当てる。
最近自分の感情を確かめる時にするポーズだった。
自分の感情。
ティンのことを大切に思っている。
大切に思うってどういこと?
千隼みたいな弟みたいな感じ?
それとも愛しいっていうのはこういうこと?
苺花が考えながらティンに見とれていると、ティンが素早く唇にチュッと音を立ててキスを落とした。
苺花が驚いて唇に揃えた指先を当てる。
またその上にキス。
そして美しい顔で微笑む。
真っ直ぐ見つめられる瞳。
「ありがとう。苺花。
初めてコーヒー自分で買ったよ。
楽しかった。
、、、そろそろ帰ろうか。」
とニッコリ笑った。
ティンに答える言葉が見つからなくて黙って頷く。
その後は何も喋らずに2人手を繋いで歩いた。
話さなくてもごく自然に並んで歩いていられる。
ちょっとだけだったけど、2人にとってはものすごい大冒険をした気分だった。
マンションに戻ると、玄関に大きい革靴が綺麗に揃えて置いてあるのを見つける。
2人で顔を見合わせる。
しまったという顔だった。
恐る恐る廊下を進み、一番奥の開き戸をそうっと開ける。
案の定、リビングのソファにヨルさんが座っていた。
「、、、出かけていたのですか?」
長い足を組んで、その上に肘を乗せて軽く握った拳に顎を乗せている。
すっと目が細められて、こちらをじっと観察している。
雰囲気からして怒っているのはすぐに分かった。
瞳の奥に炎が見えるようだった。
、、、迫力がありすぎます、、、。
「っ!ごめんなさい。
少しだけ外に出ていました。
誰にも見つかってません!
誰にも声をかけられていません!」
と苺花が頭を下げて必死になって言い訳をした。
「違うよ!
俺が行きたいと言ったんだよ!
苺花は悪くない!
自分でコーヒー買ってみたかったんだよ。
今までそういうことしてこなかったから。
一度は経験してみたかったんだ。
知ってるでしょ?ヨル兄さん。」
ティンも慌てて必死に苺花を庇う。
普通の二十歳の男の子のような生活を一切してこなかったティン。
ヨルさんはそのことについて気の毒に思っていたので、それ以上は何も言えなかった。
誰にも見つからなかったという言葉を信じて、2人の行動はこれ以上咎めないことにした。
今後は勝手に外出しないように約束をさせる。
2人とも反省して、素直に約束をした。
ティンが帰国するまでどのように過ごす予定なのかヨルさんに確認される。
休暇中なので事務所の方でスケジュールを管理することもないし、本人からも報告の義務はないはずなのだが、、、。
ティンは「苺花とずっと一緒にいたい」ということを静かにキッパリとヨルさんに宣言した。
ヨルさんはため息をついて少し考えたが、ティンの瞳に譲らないものを感じたので不承不承頷いたのだった。
苺花にも意思を確認したいと向き直る。
その時ヨルさんの手のひらが苺花の頬に優しく触れる。
そのままの流れで首筋に触れる。
くすぐったくてキュッと目をつぶって苺花が首をすくめる。
ヨルさんのその行動はまるでティンに見せつけるようだった。
ティンが驚いて2人の間に割って入ろうとすると、反対の手で制止される。
「こうして匂いを消さないと、大変なことになるのは苺花なんだけど?
分かるよね?ティン。
苺花の匂いがかなり強くなってて、僕の匂いが消えてしまっているけど、ティンのせいなの?」
ヨルさんが威圧的な瞳でティンを見つめる。
それを言われてしまうとティンは何も言うことができなかった。
ヨルさんの瞳の圧に押されるようにしてソファに座った。
その後もヨルさんが大切そうに両手で苺花に触れ続ける。
目をつぶって苺花がされるままになっている。
「ティンと一緒にいたことで匂いがかなり強くなってるよ。
コントロールできるように一緒に練習しないといけないよね。苺花。」
「、、、え!
自分でコントロールできるようになるんですか?
できるようになりたいです。」
ヨルさんの言葉に苺花の目がパッと開かれる。
この厄介な匂いに悩まされてきたから、自分でコントロールできるようになるのはすごく有難い!!
内心ヨルさんは、この様子を見てティンの苺花への執着具合に不安をさらに募らせていた。
先ほどオフィスで考えていたことが現実にならないことを祈るばかりだった。
帰国するまであと1ヶ月。
ヨルさんは深いため息をつきながら考えていた。
ティンは苺花から離れることが出来るのか、、、。
そして自分はいつまで苺花を手の内に納めていられるだろうか。
もう少し対策を考えなければいけないのかな。
と腕組みをした。