君の香りに囚われて
苺花をタクシーで帰宅させた後、マンションの広いリビングではティンとヨルさんが話し合いをしていた。
静かな空間。
2人の声だけが響いていた。
ヨルさんは芸能事務所の担当マネージャーのように厳しくティンに苺花との付き合い方を管理しようとしてくる。
気に入らない。
こんな感情をヨル兄さんに持ったのは初めてだった。
自分で苺花を紹介したくせに、今度は2人の仲を邪魔しようとしてくる。
ティンはイライラを募らせていた。
この前苺花に会った時、あのキスで完全に自分に落ちたと確信したのに、ヨル兄さんのべったりとついた匂いから苺花を解放したと思っていたのに!
2人の間に漂っていた甘やかな雰囲気は消え去り、今日会ってみたら最初ものすごい戸惑っていたし、その後は明るい友達同士の空気感になっていた。
きっと苺花をヨル兄さんが車で送って行った時に何かあったに違いないとは思っていた。
本当はあの時ヨル兄さんに送って行かせたくなかった。
行かさなければよかったと何度思ったことか、、、。
ヨル兄さんの匂いで苺花も感情を操られているんだろうと思っていた。
苺花はヨル兄さんに囚われている。
毎日苺花への思いを募らせていた自分。
仕事の合間にふと浮かぶのは可愛い苺花の笑顔だった。
その度にあの時触れたように柔らかくて甘い肌に溺れたいと考えていた。
会いたくて仕方ない。
会えない時は嫉妬で狂いそうだった。
今頃、ヨル兄さんに会っていないかな?
あの匂いに惹かれた他の男に奪われるんじゃないか?
そう思う度に、自由に行動することのできない自分の立場を呪うのだった。
轟々と大きな炎が燃えている。
熱くて自分自身も滅してしまいそうな炎だった。
、、、自分の中にこんな欲望が眠っていたなんて、
と自分でも驚いていた。
いつも自分の先を歩いているヨル兄さん。
合宿所で一緒だった時、ずっと背中を追いかけてきた。
その背中の陰に隠れて守られてほっとしていた。
事務所を退社して自分を残していったヨル兄さん、、、。
悲しくて悲しくてなかなか立ち直れなかった。
だけど、今はそんな自分が恥ずかしい。
ただのワガママをヨル兄さんにぶつけているだけじゃないか。。。
「ティン。
君がこれから目指すものはなんだい?
世界じゃないのかい?
今、目の前の物だけに目を向けるんじゃない。」
ヨル兄さんが静かに諭す。
ヨル兄さんは怒っていても声を荒げたりはしない。
こうやって聞こえるのか聞こえないのか分からないくらいの静かな声で語りかけてくるのだ。
ヨル兄さんの言葉を一語一句全て聞き逃したくなくてつい耳を傾けてしまう。
そうしている内に冷静な自分に戻る。
いつものヨル兄さんのやり方だ。
苺花だけではない。
自分もまたヨル兄さんに囚われている1人なのだ。
「、、、分かってるよ。
そのためにずっと努力してきたんだ。
日本に来てハッキリと意識したよ。
メンバーもスタッフもファンも、、、みんなそれを望んでいるんだって、、、。」
ヨル兄さんの言葉はいつも正しい。
正しくて、正しすぎてとても痛い。
ヨルさんがティンの言葉を聞いて満足そうにうなづく。
アーティストとしてのティンは、ティン自身のものだけではないということを。
その為にずっと厳しいレッスンに臨んできたんだ。
自分を押し殺して。
商品として生きてきた。
日本に来るまでは自分がそんなに我慢をしていたということに、まるで気がついていなかったけど。
だから、あんなに没頭して一生懸命やってきた歌にもダンスにも自分自身、感動が生まれず無気力だったんだ、、、。
いくら一生懸命やったところで、SNSでは必ず批判される。
応援してくれるファンが沢山いるのに、傷つけられるような意見が1つでもあればそれが自分の中で繰り返し繰り返しトゲのように刺さってチクチクと心を苛むのだ。
苦しい。息ができないようだった。
苦しいのに誰にもこの心の内は見せられない。
夜になっても眠ることができず、ひたすらにダンスレッスンを繰り返したりして、さらに自分を追い詰めていた。
一緒に戦ってきたメンバーには心配をかけたくないから尚更話すことができなかった。
メンバーの足を引っ張りたく無い。
自分が崖っぷちに立っているのは分かっていた。
でもどうにもできない。
いっそ今の世界を破壊してしまおうか、と自暴自棄になるような事ばかりを考えていた。
、、、そんな時に苺花に出会えた。
彼女を一目見た時から心惹かれていた。
なんだかやっと出会えた。
と思えた。
あの香りを近くで感じて、彼女と話をして、彼女に触れるたびに、自分は自分というものを取り戻しつつあったのだ。
あんなに苦しかった呼吸がいつの間にか楽にできる様になっていた。
彼女の瞳に映る自分はもっとカッコよくありたい。
目的がある努力はとても心地が良く、全てのことが彼女の瞳に映ることを意識していたので、丁寧に大切に行うことができたのだった。
そこに自分でも感動して、自然と笑顔が生まれた。
コンサート会場に彼女がいないことは本当に残念だったけど。
カメラの向こうに彼女がいて見ていてくれると思うだけで、こんなにも楽しいものなのか、と感動もしていた。
これからも彼女の瞳に映り続けていたい。
、、、どこにいても。
ティンの正直な気持ちだった。
ポケットに苺花を入れて世界中一緒に行けたらいいのに。
クムでさえ自分の思い通りに連れてくることなど出来なかったのに、、、。
苺花を連れて行く、そんなあまりにも現実離れしていてあり得ない想像をしながら、自嘲気味な笑みをこぼした。
ティンが黙りこんでいる。
思考の狭間にいるんだろう。
ティンは考え始めるともう誰が何を言っても反応がなくなるのだ。
その様子を見ながら、ヨルさんも考え込む。
苺花のことを。
最初に会った時のことを。
いつものように自分の担当エリア内の店舗の一つに出勤すると、店の入り口に立っている女の子がいた。
声をかけると飛び上がって驚いた。
振り返った時に舞い散った香り。
大きな瞳と視線がぶつかった瞬間に彼女がよろめいた。
咄嗟に支えた時の軽さ。
思わず抱き締めるような形になってしまった時、コントロール出来ず自分の匂いを発散させてしまった。
全てが一瞬の出来事だったが、今でも鮮明に思い出せる。
そのくらい強烈な記憶として自分の中に残っていた。
あの時の彼女の香り。
今でも鼻腔の奥に残っているようだった。
香りを操ることができる自分でも時々くらっとよろめいてしまいそうになる危険性を孕んでいた。
自分の元に跪かせるように異性を惹きつける。
誰も彼も闇雲に匂いを放つ様なことはなく、ある程度本能で自分の元に集う相手を選別している様だった。
、、、これは本人が知ってしまうと後々面倒になりそうだったので伝えないことにした。
使い方によっては自分の意のままに操ることもできるのに、彼女の性格の故かそれは思いつきもしなかっただろう。
むしろ寄ってくる男たちに恐れをなして隠れて過ごしてきた。
これからもそうやって恐れて男たちから身を守ってもらいたい。
よく今まで何事もなく過ごしてこれたと感心していたのだが、それはいつも側にいる幼なじみである詩の存在が大きいのだろう。
元来あの香りは家族の前では作用しない。
遺伝子的に近親婚を避けるためなのか。
と考えている。
自分の実感では。
だから幼なじみの詩が側に常にて、彼女を守っていたから香りを出さずにいられたのだろうか。
、、、まぁ、その家族みたいな存在の中で千隼だけは少し惑わされている感じがしたが。
苺花がバイトに復帰してきた時の千早の様子を思い出す。
苺花に向けられたとろけるような笑顔。
あんなに甘い表情をするんだと、意外に思ったんだっけ。
仕事場ではいつもきちんとしていて、他のバイトの女の子とは必要最低限かしか話していなかったし、女の子が話しかけても冷たくあしらっていた。
苺花に対してだけ、あんな風にちょっかいを出したりして構っていた。
そんなアプローチも、、、苺花には少しも届いていなかったようだが。
両膝に、肘をおいて手を組む。
その上に顎を乗せてティンを黙って見つめていた。
苺花の容姿はきっとティンが気にいるだろうとは思っていた。
ティンは昔から小さくて可愛い物が好きだったから。
でもこの執着心はなんだ。
あの香りに惑わされているからか?
それとも白いぬいぐるみの代わりに夢中になっているだけなのか?
これからも続く長いアーティスト活動の間にこれからもたくさんの出会いと別れがあるだろう。
苺花のことはその刹那的な出会いの一つとして済むように祈るしかなった。