君の香りに囚われて
 

 ティンが帰国する日が日に日に近くなっている。


ヨルさんはティンのグループのサポートをしている間、通常業務を滞らせていたので、今その分の仕事に忙殺されていた。

合間にティンから電話をもらっていて、曲作りの話などを聞かされていた。

その声は弾んでいて、すごく順調だということも感じられていた。

休暇中だというのに生み出された曲たちはどれも素晴らしく、彼の仕事への情熱を感じることができて、喜ばしくもありホッともしていた。


でもせっかくなのでもう少しゆっくり休暇を楽しませてあげたいな。

ヨルさんの親心。

そういった事情もあり、マンションを訪問するのを控えていたのだった。



それでも、やっぱり帰国前に2人の様子を確認しないといけないのと、自分の仕事も少し落ち着いたところで、暫くぶりに苺花に連絡を取り、カフェで待ち合わせをしたのだった。、


 自分で約束を取りつけておきながら、すでに遅刻している。

車を駐車場に停めてから足速にカフェに急ぐ。


苺花にやっと会える。


そんな考えが心に浮かぶ。



うん?なんでそんな風に考えるんだ。

と自分でも戸惑ってしまう。


そしてヨルさんは自分でも意識していない内に苺花に随分と心を傾けていたことに気がついた。

ティンのことを優先しなけばいけない時なのに余計なことを考えてはいけないんだ!

ともやもやとした考えを振り払うように頭を振った。





 カフェの窓際に座る苺花の姿が見えた。

窓越しにも苺花の佇まいがとても美しく目に映る。 


少し痩せたか?


憂いを含んだ横顔。

伏せられた瞳。

長いまつ毛の影が頬に落とされている。

こちらには全く気がついていない。


そんな様子を横目で見ながらヨルさんは早足にカフェに入った。


向かい側の席に腰掛けると、苺花が気がついて顔を上げた。

ほっそりした顔。
少しではなくだいぶ痩せた様だった。

今日も肌を露出せずに、襟の高い、首にリボンが掛けられた可愛らしいシフォンの長袖のワンピースを着ていた。

こちらを見上げる瞳は微かに潤んでいた。

大きな瞳。

痩せたからか瞳だけがやたらと大きく見えた。

あれ?と思った。

彼女から匂いを感じることが出来なかったからだ。

しばらく会えてなかったので当然自分のつけた匂いは消えていたが、それでもいつもだと漂ってくる甘い香りが全くしなかった。

そして、落ち着いたというか、沈んだこの表情にも違和感を感じた。

今まで自分を見上げていた時の表情とは全く異なる。

感情が読めない。

まるで全然知らない大人の女性のように見えた。


「苺花、久しぶりですけど、痩せましたね。

ちゃんと食べてますか?

心配になります。」

ヨルさんが苺花の頬にそっと、指先で触れようとした。


「あっ。」

ピリっとした刺激を感じて、苺花が反射的にヨルさんの指から顔を背けた。



いつもだったらヨルさんの指に自分からそっと頬を差し出して、もっと触れられたいという雰囲気のまま上目遣いで甘えてきていただけに、
この拒否感にヨルさんは少なからずショックを受けていた。

指先も引っ込められずに、驚いた表情を浮かべる。


そしてティンと苺花の関係にハッと気がついてしまう。

ティン以外の男性を拒否している、と。

ティンと苺花の関係に気が付かれてしまったということに、苺花も気がついてショックを受ける。


、、、ヨルさんには知られたくなかった。


この一瞬でお互いの知りたくなかった、知られたくなかったことが判明してしまった。


苺花はなにも言うことができずにただ目を見開かせていることしかできなかった。


「、、、ここだと話ができないな。

とりあえず出ましょうか。

車を近くに停めてあるんです。」

苺花の答えも聞かずにヨルさんは立ち上がると、会計を済ませてから苺花の腕をとる。

腕に手のひらの熱を感じる。

とても熱かった。

ヨルさんの感情が流れ込んでくるようだった。

ヨルさん怒ってるのかな。
怒ってるよね。
ヨルさんには嫌われたくない。

と泣きそうになる。


大股で歩くヨルさんの後を必死について歩いていく。
ふわふわとした素材のスカートが足に絡まるようでうまく進めない。

もたもたとしている自分に苛立つ。

早く歩かなくては、と気持ちだけが焦っていた。

カフェからすぐ近くの駐車場にヨルさんの車を見つける。

マットな質感の黒い高級車。
窓にスモークが貼られていて、中は見えないようになっている。

ヨルさんは助手席のドアを開けて苺花を乗せると、運転席に座りハンドルを握る。

無言で車を発進させた。

車は静かに走り出す。

ヨルさんの車に乗るのは最初にティンに、キスをされた日以来だったと思い出す。

あれからすごく日にちが経ってしまった様に感じていたけれど、思い出してみるとそうでもなかった。

ただ毎日が、嵐の様に過ぎ去っていっていただけだった。

詩の紹介で韓国料理店で働き始めたこと。
ヨルさんとの出会い。
ティンとの出会い。

目まぐるしく今までのことが頭の中に映像として流れていく。

窓の外、ぼんやりと流れていく風景を目で追う。

しばらく車を走らせて、海の見える駐車場に車を停める。
他の車はほとんど停まっていなかった。


波の音が聞こえてくすんだブルーの海が見える。
波が絶えず押し寄せてその間をサーファーたちが泳いでいる。
波に翻弄されて、サーフボードの上に立ったと思うとすぐに空中に投げ出され波の間に消えていく。


まるで、今の苺花の心の中のようだった。


くすんだブルー。

ただ波が打ち寄せては引く、その繰り返し。

前に進んでいないし、後に下がることもできない。

ただその場に漂っているだけ。


シートベルトを外したヨルさんが苺花の方を向く。

「苺花。ティンと寝ましたね。」

苺花の胸の鼓動が大きくそして早く拍動する。

その言い方に苺花は衝撃を受けて胸が苦しくなった。

頭が真っ白になり、ヨルさんがイライラと怒っているように感じて膝の上に置いていた両手にぎゅっと力を込める。


苺花は答えられずに瞳を伏せていた。

ヨルさんのグレーの瞳を真っ直ぐ見返す気力がなかった。

身体をヨルさんの方に向けることもできない。

手のひらの中でスカートの布地がくしゃくしゃになるのだけを感じていた。


狭い逃げ場のないこの空間から、解放されたい。

呼吸もうまくできない。

重苦しい時間が流れる。



「苺花、触れても大丈夫?

僕は怒っていないよ。

むしろティンと君を出会わせてしまって申し訳ないと思っている。

結局こうやって苺花を傷つけることになってしまった。」

苺花の握りしめられた両手にそっとのせられるヨルさんの大きな手。

温かく包まれる。


静かな語り口。

その言葉には怒りを感じられなかった。

むしろ優しく気遣ってくれていて、本当に心から申し訳なかったという気持ちが込められているようだった。


謝らなければいけないのは苺花の方なのに、ヨルさんに謝られることなど何もないのに。

ヨルさんの言葉には重さがあった。

ずっしりとした重量感。

いつも責任を背負っている人が紡ぎ出す雰囲気。


小さな声。

聞き逃したくなくて、より耳を澄ませる。


苺花がホッとして身体の力を抜くと、ヨルさんの香りを身近に感じ、顔を上げると、その時にはフワッと優しく抱きしめられた後だった。


ヨルさんの長い腕。

きっと抵抗しても逃れられない。

そしてヨルさんの香り。

この香りに包まれたらもう余計なことは何も考えられなくなる。


苺花はそっと瞳を閉じた。


「苺花、分かってるよね?

ティンはもう帰国するんだよ?

苺花は一緒についていけない。

ここに残されるんだよ。」

耳元で囁かれる事実。


苺花の瞳から涙が溢れる。
小さな嗚咽。


思い出すのはティンの瞳。

苺花以外誰も映さない。

美しいグレーの瞳。

彼の微笑み。

他愛もないお喋り。

綺麗な声。

大きな手のひら。

彼の悩み。

抱きしめられた時の温もり。

2人で重なった時の体温。


とても幸せな時間だった。

ひとつひとつが胸の中でキラキラと輝いている。


でも、彼は苺花1人だけのものには決してならないのだった。

それはよく分かっている。
最初から。


「僕は側にいるよ。

苺花を1人にはしないよ。

大丈夫。大丈夫。」

背中を優しく撫でられる。

大きくて温かい手のひらの感触。
心に染み込んでくる甘い言葉。


ティンとの別れは不可避なもの。

ティンとずっとその話題は避けてきたけど、会って話しをしなければいけない。

してしまったらきっと全てが終わるんだけど。


「ティンは君の側からいなくなるけれど、僕はずっといるよ。

苺花のことをとても大切に思っている。」

ヨルさんの言葉は嘘ではないと思った。
その場しのぎの言葉ではない。

本当に心から苺花を大切に思っているから発せられた言葉だった。



初めは確かに苺花の強くて甘い匂いに惹かれた。

自分と同じ芳香を放つ仲間として。

コントロールが効かない未熟さも、苺花の可愛らしい容姿にも庇護欲をそそられていた。

会って話をする度に、彼女の控えめな性格や物腰の柔らかさや優しさはティンだけではなく、ヨルさん自身も癒されていたし、救われてもいたし、好かれていると分かっていたのでそれに甘えてもいた。


今、こんなに心を痛めている彼女を放っておくことなどできなかった。

彼女を追い詰める原因を作ってしまったのは他ならぬ自分であるということも、重々自覚していた。

ティンとの関係に気がついてしまって、嫉妬で胸が焦げていたが、2人がそういう関係になるようにと仕向けたのも他ならぬ自分であった。


自分がそのことに関して悔やまれるのも自業自得なのだ。

ヨルさんは唇を噛む。

苺花の嗚咽が止むまでヨルさんは優しく抱きしめてそっと自分の方に引き寄せた。
苺花からは力が抜けて完全にヨルさんに体重を預けていた。


ヨルさんが右手ででそっと苺花の頬を包む。

もしかしたらまた触れたら拒否されてしまうかも、と恐る恐るだったが、苺花は素直に受け入れてくれた。


ヨルさんの唇が苺花の頬に寄せられる。
優しくそっと。
遠慮がちではあったが、それはとても慈愛に満ちたものだった。

ティンとはまた違う感触だ、とぼんやりと考えながら、苺花はされるがままに受け入れていた。

今はこの胸の苦しみから解放されたい。
縋れるものならなんでも良かった。
ただ甘やかされて慰められたかった。


苺花は自分がこんなにも狡い人間だと改めて思い知った。

そっとヨルさんの背中に小さな手を這わせてすがりついた。

初めての別れはもうすぐそこに迫っているのだ。




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