君の香りに囚われて
それぞれの世界に


 暗い部屋。


ティンが目覚めると、もうどこにも苺花の姿はなかった。


「苺花、、、???」

そっと呼んでみたけど答えはなかった。

何もない寝室にやけに自分の声だけが響いて聞こえた。


部屋の中にはまだ彼女の芳香が色濃く残されている。

ついさっきまで腕の中に抱いていたのに。


ああ、彼女はいってしまったのか。


その瞬間理解した。


胸が抉られる思いだった。

大きな喪失感。


感情が溢れてきてティンの瞳から涙がこぼれた。

ベッドの上に上体を起こして座り、膝を立てて両腕で抱きかかえる。

自分の身体がとても小さく、弱い存在になったようだった。


ふと見ると、枕元に封筒が置いてあることに気がついた。


慌てて封筒を引き寄せて手に取る。

『ティンへ』

中にはハングル文字で書かれた手紙が入っていた。

そこにはティンに出会えたことへの感謝が綴られていた。

そしてどこにいても応援しています。

あなたのことを心から愛しています。

あなたの周りにもあなたを心配して大切にしてくれて心から愛してくれる人たちが沢山いることを忘れないでください。

身体を大切にしてください。


と書かれていた。

所々文字が滲んでいるのは彼女の涙の跡かもしれない。


ティンの眠る側で、これを泣きながら書いている苺花の姿を想像して胸が締め付けられた。


ティンは手紙を抱きしめて泣いた。



今までで1番嬉しい言葉だった。

『愛している。』

『俺も君を愛している。』

『大切だよ。』

『会えて本当に良かった。』

『ありがとう。』

彼女に求めるばかりではなく、もっとたくさんの言葉を贈れば良かった。

出来ることならば彼女と一緒に生きていきたかった。
彼女と同じ空間でいつも同じものを見ていきたかった。

彼女もきっとティンと同じ気持ちだっただろう。


けれど。


彼女は自分の気持ちより、ティンのアイデンティティである仕事を優先させてくれたのだ。

それはティンを本当に大切に想ってくれている表れなのだと思う。


別れに心が千々に乱れ、苦しくてすぐ彼女を探しに飛び出したかったけれど、彼女の守ってくれたものを大切にして噛み締めて生きていかなけばいけないと歯を食いしばって耐えた。


それでも悲しみが身体の内側から溢れ出してきて慟哭した。

止めることはしなかった。

自然に自分の感情に従った。

それしかできなかった。


抱えた膝にかかっている毛布が涙を受け止めてくれていた。

頬が冷やされていくのを感じる。


身体中の水分が全部涙になって流れ出たようにも感じた。

どれだけの悲しみが自分の中に溜まっていたんだろうか。


しばらく放心していたが、泣いた後の喉の痛みを感じてやっとベッドから立ち上がりリビングに向かった。

、、、何か飲んで喉を癒さなければ。


なにも身につける気分にならず、裸のままで重たい身体をやっと動かしている感じだった。


泣き腫らした顔が熱い。

頭も重たくてとても怠かった。


廊下に出るとキッチンからいい匂いがしていることに気がつく。

匂いに誘われてふらふらとキッチンまで歩く。

鍋にティンの好きなわかめのスープが作ってあった。

他にも温めたらすぐに食べられるものが何品かお皿に盛り付けた状態でラップに覆われて置いてあった。

冷蔵庫を覗くとサラダと型の崩れたサンドイッチが並んでいた。


ティンの好きな具材ばかりだった。

サンドイッチはきっとヨル兄さんからだ。

自分が心配されていて大切に想われているという苺花の手紙を思い出し、また涙がこぼれる。


ふと、鏡面の冷蔵庫に映る裸の自分の姿を見る。

左の鎖骨の下辺りに小さな印が刻まれていた。

よく見ようと冷蔵庫のドアに身体を近づけて、確かめる。

それは、苺花が初めて残した跡だった。


そっと指先で触れる。


確かに彼女はここにいたのだ。
ここにいたのだ。


また涙が溢れる。

冷蔵庫に両手をついてなんとか身体を支える。
そのままずるずると床に沈み込みそうだった。


ヨル兄さんもいつもティンを大事にしてくれていた。


合宿所での生活を思い出す。

なんでも相談に乗ってくれて、優しくしてくれて愛してくれていた。

食事を作ってくれたり、ホームシックにかかった時も抱きしめて一緒に寝てくれた。

練習に気持ちが乗らない時に冗談を言って笑わせてくれたこともあった。

たくさんの事を教えてくれて導いてくれた。


楽しかった思い出。

あの時は初めての経験ばかりで、なんでも珍しくて面白かった。

歌もダンスもとにかく無我夢中で脇目も振らず取り組んでいたんだ。

何事も一生懸命だった自分。

未来はすごく明るくて、将来は成功するって信じて疑わなかった。


ずっと忘れていた。


どうして今まで忘れていたのだろう。


他にも困難を一緒に乗り越えてきたグループのメンバー達、事務所の人たち、マネージャーたち、現場で関わる全ての人達、そしてファンでいてくれる人達。

家族もそう。
クムもそう。

ティンを信じてくれて、笑顔で送り出してくれたんだ。


みんないつも声をかけてくれていた。
そしていつも愛してくれていた。

それに支えられて生きてきたのに。

なのに、いつの間にかそんな人たちをずっと蔑ろにしてきたのだった。



自分の感情をいつの間にか忘れ、毎日目の前のやるべきことに囚われて、インターネット上の意見に振り回されて、自分を見失い、そうして感謝するということも忘れていた。

本当に自分は人間ではなく物だったんだ、、、。

なんて周りが見えていなかったのだろうと。

今、目の前の霧が晴れるようだった。



まだほんのりと温かい料理をキッチンで泣きながら食べた。

これが全て自分の身体の血となり肉となるのだ。


苺花の優しい気持ちも身体に入ってくる様だった。

苺花の作ってくれた料理は全部美味しかった。



このマンションで過ごしてから何度も苺花が料理を作ってくれた。

抱き合うこと以外にも一緒に過ごした思い出はこれからもティンを支え続けてくれるだろう。

そしてこの料理の味をきっと一生忘れることはないだろう。


『身体を大切にして』


は、いつも苺花に言われていたんだった。


苺花、ありがとう。

大切なことを沢山気づかせてくれて。


苺花を心配させないようにこれからも元気でいなくてはいけない。

ちゃんと食事をして。

ちゃんと睡眠をとって。

ずっとサボっていた筋トレとダンスレッスンも頑張ろう。


ティンは苺花の残してくれた言葉をひとつひとつ噛み締めて、体中の全部の水分を涙として外に出したことでやけに清々しい気持ちになっていた。

まだ心は痛いけれど、明日になったら部屋の片付けをして帰国の準備をしなくては

とやっと前に進める気がした。


裸で作業部屋に戻り、苺花の残した跡に触れながら、曲作りもまとめる。


日本に来て本当によかった。


これからは全てのことにもっと感謝の気持ちを持って生きていく。


そう決心した。





< 27 / 31 >

この作品をシェア

pagetop