君の香りに囚われて


 リビングのカレンダーとにらめっこ。


辛くても苦しくてもそれでも毎日時間だけは正確に時を刻んで過ぎていく。


詩が様子を見に来てくれてから、ずっと苺花の体調を心配して側にいてくれていた。

食事も一緒にして、夜は家に泊まってくれている。

なので少しだけど食事も摂れるようになったし、少し眠れるようになった。

体調だけはまだ安定していない。

けれど、心は落ち着いてきたように感じる。



別れの辛さや悲しみは乗り越えるというよりも常に側に寄り添っていて、一緒に歩いている感じがする。

気がつくと側に横たわってる。


無理に忘れようとなくても良いんだって自分に言い聞かせる。


そうしている内に自分の中の1つの感情として織り込まれていく。

それはキラキラと輝いている艶やかな織物のようにも感じられた。

苺花の宝物。

思い出すとちゃんと辛いけど、そんな感情も自分の一部となっているのだ。


今までとは違う自分になった。


そして、大学の授業もちゃんと受けて学生の本分を取り戻さなくては!という気持ちになってきていた。


詩がノートのコピーをくれたので、それをテキストと照らし合わせながら読み込むことにした。


リビングで少し課題にも取り組んで、レポートもまとめて一息ついたところ。


詩は大学の授業を受けに先ほど出かけて行った。

バイトが終わったらまた来てくれるって、約束してくれた。

私ももう少ししたら詩と一緒に外に出かけたいな。


そうやって日常を取り戻していかないといけない。

自分に何度もそう言い聞かせる。


そうじゃないとまた感情が戻ってしまう。

ティンの顔を、声を、思い出してしまうから。



ティンと過ごした日々はすごく短いものだったはずなのに、出会う以前はどんな生活をしていたのか自分でも思い出すことができなくなっていた。

世界が全て塗り替えられて、新しい世界になった様だった。






「連絡します。」

と、約束していたのにヨルさんにも電話もメッセージも送ることが出来ていない。

携帯電話を手にして連絡しようと何度も思うのだけど、、、。
思うだけで、行動に移すことができなかった。


今も迷っている。


バイトの方もあるのに。

無責任な自分に嫌気がさす。


「はぁ。」

と苺花は大きなため息をついた。



ティンはもうすぐ帰国する。

ハッキリと日付を聞いたわけではないんだけど。

多分あと数日のうちに。


カレンダーを指でなぞりながら、考えても仕方ないことばかり次から次へと浮かんでは消える。


課題をやっている時は何も考えなくてもよかったのに。


会えない時間、作業に没頭していたティンの気持ちが今ならよく分かるような気がした。


あの時は仕事熱心だなって感心していたくらいで、まさか自分も同じように作業をしていないと心を落ち着かせて過ごすことが出来なくなるなんて想像もつかなかった。



 そんな苺花の耳に携帯電話の着信音が届く。

カレンダーから視線を外して振り返り、携帯電話のありかを探す。

「どこに置いたんだっけ。」

ティンと連絡を取り合っていた時は肌身離さず持っていたのに、今は無意識にあちこちに置いてしまうので、携帯電話をこうやって探してしまう。

なくてはならない物なのに、今はあまり側に置いておきたくないという気分もあった。

近くにあれば嫌でも意識してしまう。


もしかしたら連絡が来るかもしれないと。



リビングから廊下に出る。

携帯電話の着信音だけが頼りだ。


結局自分の部屋に置きっぱなしだったと気がついて、部屋に入って手を伸ばした時には着信音は止んでいた。


着信履歴を確認するとヨルさんからだった。

申し訳ない気持ちでかけ直そうとしたら、また着信音が鳴る。


「もしもし。

お電話いただいたのに出られなくてすみません。」


苺花が電話に出ると

息を切らしたヨルさんの声が聞こえた。

「あー苺花よかった。

今日急遽ティンが、帰国することになって。

空港まで見送り行くんだけど一緒に行きますか?」

突然の内容で、苺花の思考能力が停止する。


とうとうこの日が来てしまったのだ、、、。


「え、、、。

私、行っても良いんでしょうか。、、、

もう会わないつもりで、お別れしたんです。」


「はい。聞きました。ティンから。

でもこれでしばらく日本には来れなくなるので、遠くから見送るだけでも。

無理にとは言いませんけど。

大丈夫でしたらお迎えに行きます。」



しばらく考え込んだが、遠くからでもティンの姿を見たくてヨルさんに連れて行ってもらうように苺花からお願いした。


きっともう直接会うこともないんだから。

最後に見送るくらい自分に許しても良いと思ったのだ。


遠くからでも。
この目に焼き付けたい。


「よかった。

では、あと30分ほどでお迎えに行くから。

用意しておいてくださいね。」


ヨルさんの明るい声が聞こえて、電話が切れた。



苺花はすぐに準備をして、いつヨルさんが迎えに来ても良いようにしておく。

元々あまり化粧もしないので、着替えて、髪の毛を直して、日焼け止めとリップを塗るくらいで終わってしまう。


化粧などしなくても、ティンに愛された苺花は内側から輝くような美しさを放つようになっていた。

本人は気がついていなかったが、その美しさは、詩も口には出さなかったが驚いてはいたのだった。

匂いのコントロールも気を抜かないように、深呼吸をして今一度コンディションを整えておく。



しばらくしてヨルさんの到着を知らせる電話が鳴って苺花はマンションの下に降りていく。
 

そしてヨルさんに挨拶をして車に乗せてもらう。

久しぶりに会うヨルさんはやっぱり素敵で、苺花はほうっとため息をついた。


「なかなか連絡ができなくてすみませんでした。」

ヨルさんの方を向いてきちんと謝罪の言葉を述べて頭を下げる。


ヨルさんは運転しながら、

「いいんです。

よく今日来てくれました。

ありがとうございます。苺花。」

と微笑みながら返答してくれる。


「ティンとお別れして辛かったでしょう。

ティンもとても辛そうでした。

でも前のティンとは全然変わりました。

これからしっかりと自覚を持って生きていってくれるでしょう。

苺花のおかげですね。

ありがとうございます。」


ヨルさんの優しい言葉に心が温かくなる。

ヨルさんは何をしても苺花を否定したりしない。

全て包み込んでくれる。


そこからなにも言葉にできず、静かに助手席に座っていると、
ヨルさんカーオーディオをつけてくれる。

言葉を発しなくても気まずくならないようにの配慮なのかな

と苺花は思っていたけど、


静かなピアノの音。

バラードが聞こえてきた。


、、、聞き覚えがあった。


自然と耳を傾ける。

いつの間にか涙が流れていた。



マンションの作業部屋でティンが作っていた曲だった。

歌詞もつけられている。


美しい香りに誘われて囚われて溺れていく。

追い求めても届かない美しい人。

その美しい人に恋をしていく様子が、狂おしいほどの愛に満ち溢れた詩で綴られた曲だった。


ティンの切ないボーカルがよく合っている。


作業部屋で聴いたものよりもさらに心に訴えてかけてくるようだった。

鳥肌が立つくらい、感情のこもったティンの声がなによりも美しかった。



「ティンが、この曲を苺花に贈りたいそうです。

もっと君に言葉を伝えれば良かったと言っていました。

感謝しているとも。

大切なものに気が付かせてくれたと。


そして僕にも感謝の言葉をくれました。

忘れていたものを思い出したそうです。

すごく良い表情をしていましたよ。

ティンはこれから堂々と世界と勝負できると思います。」


その言葉に何度も頷く。

ティンは1つの大きな山を乗り越えたんだってことが分かった。

良かったという安堵のため息が漏れる。

素晴らしい曲だった。

ティンの仕事への熱い想いが感じられたから。

きっとこれからも彼は自分の世界で戦い、そして輝き続けるのだ。



そう思いながら、何も言葉にすることは出来ずに、空港に着くまでただ静かに苺花は涙を流したのだった。



「苺花、匂いがかなり強く出ているよ。

大丈夫?

僕が抑えようか?」

一般客が入れない専用の空港の駐車場に着いてから、車を停めたヨルさんが苺花の顔を覗き込む。


大分コントロールが出来る様になってきたはずなのに、ティンのことを思い出していたらついつい感情が高まったのか濃厚な匂いが放たれてしまっていたようだった。


その濃厚な匂いにさすがのヨルさんも目眩を起こしそうになっていた。


どれだけの感情が彼女の中に生まれてたのか。

ティンとの時間を過ごすことで育まれた匂いだ。

以前とは匂いの違いを感じる。


それにハッキリと嫉妬を覚える。


その嫉妬心からか、苺花の香りに今まで以上に強く強く囚われる。

思考も絡めとられ、今は彼女を自分の側から離したくないという強い衝動が湧き上がる。


 苺花の返答を聞くこともなくシートベルトを外したヨルさんはそのまま苺花を抱きしめた。

そして自分の匂いで苺花を包み込む。

一刻も早く苺花の中からティンを追い出したいという感情でいっぱいになっていた。


「ヨルさん。」

いつもこんなに急にヨルさんに抱きしめられたことがなかったから、驚いた苺花は両手でヨルさんの胸の辺りを押して離れようとした。

でも、力で敵うわけがなかった。


身体の熱がじわりじわりと伝わってくる。

ティンと同じ燃えるような熱さだった。


初めてヨルさんが怖いと思ってしまった。

今抱きしめられたいのは、この人ではない。


ないはずなのに、ヨルさんの香りに包まれてホッとしている自分もいた。



自分の出しているこの匂いにヨルさんが囚われてしまっているのかもしれない。

同じ特異体質であるヨルさんさえも惑わせてしまう。


異性を惹きつけてしまう。

この匂いが。

なんとか抑え込まないと。

自分が怖くなって、焦る苺花。



 その時、車の助手席の窓がノックされる。

全面にスモークが貼られているので、外からは中の様子が見えないはずだった。

苺花が目だけで音のする方を振り返ると、見覚えのある人物が中を覗き込もうとしていた。


帽子もマスクもしていないその人物。


美しい顔。


中をよく見ようとちょっと眉根を寄せて窓を覗き込んでいる。


「ティン!」

苺花の出した大きな声に、ハッとヨルさんが気がついて抱き締めていた腕を緩める。


その隙に苺花は腕をすり抜けてドアを開けた。

ガチャッ。

濃厚な匂いと共に転がり落ちそうになりながら外に出る。



「苺花、、、」

切なそうなティンの声。

ドアから飛び出してきた苺花を受け止めてティンはそのまま抱き上げた。


「会いたかった、、、。

来てくれてありがとう。」


優しい声。

夢にまで見たその愛しい声に、また涙が溢れる。


「、、、ティン。」


抱き上げられて安心してティンの首に自分の腕を巻き付ける。


そして、そっと顔を寄せる。


ティンが苺花の香りを胸いっぱいに思いっきり吸い込んではあーっとため息をついた。

「苺花の匂いだ。」

ティンも苺花を抱きしめる。



「もう、帰るのね。

気をつけてね。」


「うん、ありがとう。

俺、苺花の代わり連れて帰るからね。

見て。」

苺花を地面にそっと下ろして、腕を離す。


そして自分のシャツのボタンを外すと苺花の目線に合わせるように少し背をかがめてから、鎖骨の下を指差した。


そこにはタトゥーが入れられていた。

「これ、、、。」

白い花と葉。
それに隠れるように苺の果実。


可愛らしいタトゥー。

苺花の白い指先がそっとそこに当てられる。


まだ入れたばかりだったので、肌が赤くなっていてティン自身も痛みを感じるようだった。

声こそ出さなかったが、少し眉根が寄せられる。


ちょうどそこは最後のあの夜の日に苺花が残した印の上だった。


「俺の身体には苺花が棲みついてる。

絶対に消えない。

どこに行っても一緒だから。

いつも苺花を想ってるから。」


伏し目がちにそう言われる。

照れているようだった。

グレーの前髪がフワッと揺れて目にかかる。

その髪をそおっと苺花は手で払い、その表情をよく見ようとする。


ティンはそこから逃れるように顔を上げる。

頬が赤く染まっていた。


「ヨル兄さん!

苺花のことよろしくお願いします。

ヨル兄さんなら任せられる。

大事にして。」

苺花の頭を通り越して後ろに目線を移してティンが大きな声で話しかける。


苺花が振り返ると、運転席側に立って車の屋根に手をついたヨルさんが、やや罰が悪そうな表情をして俯いていた。


ティンの声にぱっと頭を上げる。


「うん。

分かってる。」

韓国語で答える。


その決心したような表情のヨルさんに向かってティンが美しい笑顔を向けて頷いた。



ティンには、苺花の匂いの上にヨル兄さんの匂いがいつも以上に濃くつけられているのがすぐに分かっていた。


これが、苺花に対してのヨル兄さんの気持ちなんだ。


と改めて思った。


きっと自分に会わせる前から、ヨル兄さんは苺花のことを特別に思っていたんだよね。


その気持ちは多分最初から分かっていたけど、譲れなかった。

苺花をどうしても自分の側に置きたかったから。



「ティンそろそろ時間。」

後ろからマネージャーに話しかけられて、それに応えるように後ろ向きのままティンが右手を上げる。

マネージャーはヨルさんと苺花に向かって気をつけをした後、深々とお辞儀をした。

「お世話になりました。」


その言葉に、こちらもお辞儀を返す。



もう時間なのね。


苺花の頬にまた涙が伝う。


ティンの指がマネージャーに気を取られていた苺花の耳に触れる。

苺花の視線がまたティンに戻る。

そしてティンはお揃いのピアスにそっと唇を寄せた。


「またね。」


耳朶に優しいキスを残す。

そして、美しい笑顔を苺花に見せる。


自分の中で大きな決断をしたという表情だった。

自信に満ち溢れ、いつもよりもさらに輝いていた。

絵画の様に美しすぎて、きっとこの顔を私は一生忘れることはないだろうと
思った。


頷くことしかできなかった。



駐車場から空港に続く自動扉にその後ろ姿が消えるまで、ただ、この目にその姿を焼き付けることしか出来なかった。


ティンはもう後ろを振り返らなかった。


「ありがとう。私こそ。」


苺花は自動扉が閉まってからそっと呟いた。


心の底から湧き上がってきた感謝の言葉だった。





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