真夏の情事は、儚い夢のようで
ホテルを出ると、まだ陽が高い。
「俺、仕事あるから帰るわ。これ、タクシー代」
黒い革の折り畳み財布から、大地が一万円札を差し出した。
「いや、いいよ。タクシー使わないし、そもそも一万もかからないから」
「いいから」
私の手に強引に一万円を握らせてから、大地はじゃあなと駅へと続く道を歩き出す。
毎回何かにつけて、帰り際にお金を渡されている。
関係を割り切るためのお金なのかもしれない。
何かの線引きでもされているように感じてしまうのは、旦那にはもちろん、大地に対する後ろめたさもこの身に纏わりついているからかもしれない。
去って行く広い背中をぼんやりと見つめながら、私は昔を思い出していた。
最初に婚約をしたのは大地だった。
浮かれた様子で、婚約を報告されたあの夜を今も覚えている。
スーツに身を包んだ凛々しい大地に、眩しささえ感じられた。
まるで、幸せが全身から滲み出ているように見えたのは錯覚ではない。
その笑顔を見ると確かに切なくはなったが、大地とは一生仲の良い幼馴染であることを選んだのは自分なのだからと、見切りをつけた。
関係を壊したくなくて
伝えてもどうせ叶わないと諦めて
気持ちに蓋をして
ずっと隠してきた想い。
その全部を捨てて、大地の幸せを喜べた自分を当時は褒めたものだった。
その後、私も友人の紹介で出会った男性と1年半ほど付き合い、彼からプロポーズをされた。
サプライズなどされたわけでもなく、地味なプロポーズだったけど、派手好みではない私にとっては申し分なかったし、何より結婚して、私も幸せな家庭を築けば、大地のことを気にすることもなくなると思った。
私を心から愛し、大切にしてくれる優しい男性と一緒になれば、私も幸せになれると思った。
そう思っていたはずなのに…。
だいぶ暗くなり始めた空が窓から見える。
キッチンで、ぐつぐつと音を立てるビーフシチューを混ぜながら、私はぼんやりと昼間の情事を思い出していた。
力強く私を抱き上げる逞しい腕。
あの厚い胸板。
身体中を這う熱い舌先。
大地が快楽に顔を歪めるその瞬間。
そのどれもが、まだ身体中に残る余韻を更に際立たせる。
また早く抱いて欲しい。
そう唐突な欲望が口をついて出てしまいそうになったところで、ガチャリと玄関の扉の開く音が響いた。
「ただいま」
タイトなオーダーメイドのスーツに身を包んだ夫が、キッチンへと顔を覗かせた。
柔和な顔と、すらりとした細身のルックスはいつ見ても私好みである。
大地はどちらかといえば、筋肉質寄りだからなぁ
好みと抱かれたい体躯は別なのかもしれないなどと、くだらない考えを巡らせていると、夫が鍋を覗き込んだ。
「お!今夜はビーフシチューかぁ」
「お帰りなさい。好きでしょ?ビーフシチュー」
「うちの奥さんが作るビーフシチューは格別だからな。言ってくれたら、会社近くのうまいパン屋でガーリックフランス買ってきたのに」
「ううん、今日はね、ホームベーカリーで自家製ガーリックパン焼いてみたから」
ほらと盛り付けてカウンターに置いていたパンの山を見せた。
「焼き過ぎじゃないか、この量!」
「冷凍できるから大丈夫だよ」
そっかと夫に優しい笑顔を向けられて、嬉しい気持ちに変わりはないのに。
私の身体は、こうして何気なく夫と笑い合う今この瞬間も、昼間の大地を思い出している。
夫が大地のように、私を求めてくれたら。
愛を囁き合いながら、何度も互いに絶頂を迎えるほど抱き合えたら、こんなにも虚しさを感じることはなかったのかもしれない。
そう、私たち夫婦の向いている方向は少しだけずれている。
結婚して最初の1、2か月以来、私たち夫婦は夜の営みがない。
何がきっかけだったのか、何か原因があったのかすらも今はもう分からない。
もはや修正するのは難しいと、なんとなく分かってはいながら、それでも確めずにはいられないのは、まだどこかに夫婦として軌道修正できればと淡い期待があるからに他ならない。
「ねえ、私たちもやっぱりそろそろ子供考えない?」
シングルのベッドが二つ並んだ寝室で別々に寝ながら、もう何度目か知れない質問を夫に投げ掛けてみる。
「それは何度も話し合ったじゃないか。僕は子供が好きではないし、ましてや親になるなんて到底考えられないよ」
「でもやっぱり私は子供が欲しいし、それになにより子供の前に、夫婦のコミュニケーションも大事かなって…」
はあと呆れたような溜め息が夫のベッドから聞こえた。
「女がそんなはしたないことを言うものではないよ。そんな女は嫌いなんだよ。男に媚びへつらうみたいで浅ましい。果奈はそんな女じゃないだろ?」
夫が夫婦に求めるのは何なのか。
子供もいらない、でも妻を女扱いするでもない。
「だったら、そう言うならあなたから誘ってくれればいいじゃない。もうずっとしてない」
「毎日暑いし、疲れてるんだよ」
面倒くさそうに夫の口調が変わった。
「暑くなくてもしないじゃない。そんなの理由にならないよ」
いつもならここまで私も食い下がったりはしない。
でもなぜか今日は引くことができない。
大地なら、私にこんな惨めな思いはさせない。
大地なら、はしたないなんて言わない。
大地なら、仕方ないなって笑って誘ってくれる。
大地なら…
仰向けで寝ていた夫が、スッと寝返りを打って反対側を向いたのが分かった。
「正直言うとさ、毎日顔合わせて生活してると、もう果奈には女として欲情しないんだよな。夫婦なんてそんなもんだろうし。実際果奈だってそうだろ?子供が欲しければ、そんなことしなくてもいくらでも方法はあるし」
夫の悪びれもしない、あたかも当然の言い分かのような開き直りが、私の心を一瞬で抉ったのが分かった。
ああ、それが本心だったのか。
もう私に女としての魅力など感じない。
家事を黙ってしてくれ、口煩い親の手前良き嫁を演じ、大人しく言うことを聞いてくれる都合のよい女が必要なだけ。
いくら私が歩み寄ろうとしても、この決定的なズレは正せない。
瞬時にそう悟った。
私が夫婦に求めるのは、お互いに助け合って感謝し合って、同じ方向を向くこと。
未来を一緒に築いていくこと。
私は夫にお金だけ稼いできて欲しい訳じゃない。
裕福な生活ができればいい訳じゃない。
それ以上私が何も発さないと分かると、ホッとしたように夫の身体から力が抜けたのが見てとれた。
その背中を見ながら、かなりのダメージを受けたにも関わらず、不思議と涙は出なかった。
やっとしっくりきたからだ。
夫が私を抱かない理由、私たちが夫婦としての理想が食い違う理由。
そもそも夫婦というものに求めるものが違ったんだ。
夫婦なら信頼するのが当たり前で、勝手に夫の理想も私と同じだと思っていた。
生きてきた環境も育ってきた道も違う二人が一緒になるのだから、同じなわけないのに。
どうしようもない虚しさが込み上げた。
気が付くとベッドから抜け出し、明日着ようと寝室に掛けておいたグレーのワンピースに着替えていた。
「…果奈?」
旦那の呼ぶ声には聞こえないフリをして、財布とスマホだけを手に持って部屋を出た。
ガランとした玄関を出て、鍵を閉めてから手にしていたスマホに文字を打ち込んだ。
「会いたい」
こんな時間に、こんな唐突に、ましては会いたいだなんて連絡したことはない。
これが得策ではないことは重々承知の上だった。
でも、今は誰かにすがりつかなければ、足元がグラついて一人では立っていられそうもなかった。
「俺、仕事あるから帰るわ。これ、タクシー代」
黒い革の折り畳み財布から、大地が一万円札を差し出した。
「いや、いいよ。タクシー使わないし、そもそも一万もかからないから」
「いいから」
私の手に強引に一万円を握らせてから、大地はじゃあなと駅へと続く道を歩き出す。
毎回何かにつけて、帰り際にお金を渡されている。
関係を割り切るためのお金なのかもしれない。
何かの線引きでもされているように感じてしまうのは、旦那にはもちろん、大地に対する後ろめたさもこの身に纏わりついているからかもしれない。
去って行く広い背中をぼんやりと見つめながら、私は昔を思い出していた。
最初に婚約をしたのは大地だった。
浮かれた様子で、婚約を報告されたあの夜を今も覚えている。
スーツに身を包んだ凛々しい大地に、眩しささえ感じられた。
まるで、幸せが全身から滲み出ているように見えたのは錯覚ではない。
その笑顔を見ると確かに切なくはなったが、大地とは一生仲の良い幼馴染であることを選んだのは自分なのだからと、見切りをつけた。
関係を壊したくなくて
伝えてもどうせ叶わないと諦めて
気持ちに蓋をして
ずっと隠してきた想い。
その全部を捨てて、大地の幸せを喜べた自分を当時は褒めたものだった。
その後、私も友人の紹介で出会った男性と1年半ほど付き合い、彼からプロポーズをされた。
サプライズなどされたわけでもなく、地味なプロポーズだったけど、派手好みではない私にとっては申し分なかったし、何より結婚して、私も幸せな家庭を築けば、大地のことを気にすることもなくなると思った。
私を心から愛し、大切にしてくれる優しい男性と一緒になれば、私も幸せになれると思った。
そう思っていたはずなのに…。
だいぶ暗くなり始めた空が窓から見える。
キッチンで、ぐつぐつと音を立てるビーフシチューを混ぜながら、私はぼんやりと昼間の情事を思い出していた。
力強く私を抱き上げる逞しい腕。
あの厚い胸板。
身体中を這う熱い舌先。
大地が快楽に顔を歪めるその瞬間。
そのどれもが、まだ身体中に残る余韻を更に際立たせる。
また早く抱いて欲しい。
そう唐突な欲望が口をついて出てしまいそうになったところで、ガチャリと玄関の扉の開く音が響いた。
「ただいま」
タイトなオーダーメイドのスーツに身を包んだ夫が、キッチンへと顔を覗かせた。
柔和な顔と、すらりとした細身のルックスはいつ見ても私好みである。
大地はどちらかといえば、筋肉質寄りだからなぁ
好みと抱かれたい体躯は別なのかもしれないなどと、くだらない考えを巡らせていると、夫が鍋を覗き込んだ。
「お!今夜はビーフシチューかぁ」
「お帰りなさい。好きでしょ?ビーフシチュー」
「うちの奥さんが作るビーフシチューは格別だからな。言ってくれたら、会社近くのうまいパン屋でガーリックフランス買ってきたのに」
「ううん、今日はね、ホームベーカリーで自家製ガーリックパン焼いてみたから」
ほらと盛り付けてカウンターに置いていたパンの山を見せた。
「焼き過ぎじゃないか、この量!」
「冷凍できるから大丈夫だよ」
そっかと夫に優しい笑顔を向けられて、嬉しい気持ちに変わりはないのに。
私の身体は、こうして何気なく夫と笑い合う今この瞬間も、昼間の大地を思い出している。
夫が大地のように、私を求めてくれたら。
愛を囁き合いながら、何度も互いに絶頂を迎えるほど抱き合えたら、こんなにも虚しさを感じることはなかったのかもしれない。
そう、私たち夫婦の向いている方向は少しだけずれている。
結婚して最初の1、2か月以来、私たち夫婦は夜の営みがない。
何がきっかけだったのか、何か原因があったのかすらも今はもう分からない。
もはや修正するのは難しいと、なんとなく分かってはいながら、それでも確めずにはいられないのは、まだどこかに夫婦として軌道修正できればと淡い期待があるからに他ならない。
「ねえ、私たちもやっぱりそろそろ子供考えない?」
シングルのベッドが二つ並んだ寝室で別々に寝ながら、もう何度目か知れない質問を夫に投げ掛けてみる。
「それは何度も話し合ったじゃないか。僕は子供が好きではないし、ましてや親になるなんて到底考えられないよ」
「でもやっぱり私は子供が欲しいし、それになにより子供の前に、夫婦のコミュニケーションも大事かなって…」
はあと呆れたような溜め息が夫のベッドから聞こえた。
「女がそんなはしたないことを言うものではないよ。そんな女は嫌いなんだよ。男に媚びへつらうみたいで浅ましい。果奈はそんな女じゃないだろ?」
夫が夫婦に求めるのは何なのか。
子供もいらない、でも妻を女扱いするでもない。
「だったら、そう言うならあなたから誘ってくれればいいじゃない。もうずっとしてない」
「毎日暑いし、疲れてるんだよ」
面倒くさそうに夫の口調が変わった。
「暑くなくてもしないじゃない。そんなの理由にならないよ」
いつもならここまで私も食い下がったりはしない。
でもなぜか今日は引くことができない。
大地なら、私にこんな惨めな思いはさせない。
大地なら、はしたないなんて言わない。
大地なら、仕方ないなって笑って誘ってくれる。
大地なら…
仰向けで寝ていた夫が、スッと寝返りを打って反対側を向いたのが分かった。
「正直言うとさ、毎日顔合わせて生活してると、もう果奈には女として欲情しないんだよな。夫婦なんてそんなもんだろうし。実際果奈だってそうだろ?子供が欲しければ、そんなことしなくてもいくらでも方法はあるし」
夫の悪びれもしない、あたかも当然の言い分かのような開き直りが、私の心を一瞬で抉ったのが分かった。
ああ、それが本心だったのか。
もう私に女としての魅力など感じない。
家事を黙ってしてくれ、口煩い親の手前良き嫁を演じ、大人しく言うことを聞いてくれる都合のよい女が必要なだけ。
いくら私が歩み寄ろうとしても、この決定的なズレは正せない。
瞬時にそう悟った。
私が夫婦に求めるのは、お互いに助け合って感謝し合って、同じ方向を向くこと。
未来を一緒に築いていくこと。
私は夫にお金だけ稼いできて欲しい訳じゃない。
裕福な生活ができればいい訳じゃない。
それ以上私が何も発さないと分かると、ホッとしたように夫の身体から力が抜けたのが見てとれた。
その背中を見ながら、かなりのダメージを受けたにも関わらず、不思議と涙は出なかった。
やっとしっくりきたからだ。
夫が私を抱かない理由、私たちが夫婦としての理想が食い違う理由。
そもそも夫婦というものに求めるものが違ったんだ。
夫婦なら信頼するのが当たり前で、勝手に夫の理想も私と同じだと思っていた。
生きてきた環境も育ってきた道も違う二人が一緒になるのだから、同じなわけないのに。
どうしようもない虚しさが込み上げた。
気が付くとベッドから抜け出し、明日着ようと寝室に掛けておいたグレーのワンピースに着替えていた。
「…果奈?」
旦那の呼ぶ声には聞こえないフリをして、財布とスマホだけを手に持って部屋を出た。
ガランとした玄関を出て、鍵を閉めてから手にしていたスマホに文字を打ち込んだ。
「会いたい」
こんな時間に、こんな唐突に、ましては会いたいだなんて連絡したことはない。
これが得策ではないことは重々承知の上だった。
でも、今は誰かにすがりつかなければ、足元がグラついて一人では立っていられそうもなかった。