しあわせににおいがあったら、(掌編集)

昼でも薄暗い公園の奥に、その電話ボックスはあった。私は毎日そこに通い、彼と話す。「公衆電話を占領しちゃだめだろ」と彼は笑うけれど、私とずっと話している彼も同罪だ。一日の中で一番楽しくて幸福な時間だから、電話のコードがどこにも繋がっていないことは、大した問題ではないのだ。



私は逃げている。顔を歪め、目を吊り上げ、歯を剥き出しにし、汚い言葉を吐き続ける、ただの人間から。追われている。時間に、仕事に、友情に、恋愛に、全てのものに。そして私は、鉛色の肌をした、見知らぬ誰かの前に飛び出し、叫ぶ。「助けて、化け物!」と。



私は追いかけている。髪を振り乱し、甲高い悲鳴を上げる、ただの人間を。どうして逃げ出してしまったのだろう。鎖で椅子に縛りつけ、物言わぬよう口を塞ぎ、汚い物を見ないよう目隠しまでしていたというのに。君は何も見えていないよ。だってほら、君が助けを求めた化け物は、君を助けないのだから。



なんて恐ろしいのだろう。まさか私の口から「おめでとう、お幸せにね」なんておぞましい言葉が出るなんて。なんてむごいのだろう。とても私の感情とは思えない。ああ、そうだ、カンタレラはまだあったかしら。ある歴史家が「雪のように白く、快いほど甘美な粉薬」と形容した、あの毒は。



「せっかくの結婚記念日なのに、家で食事になってすまないね」と、夫が困ったように眉を下げるから、私は「馴染みの店がどこも閉店したんだもの、仕方ないわよ」と首を横に振った。それに今年もふたりでデートして、記念日を祝えたんだもの、それだけで充分よ。「二百回目の結婚記念日、おめでとう」



彼と出会うまで二十数年、色々な人と出会い、別れ、経験してきた。彼だって同じだ。でも今、隣にいるのは私だから、過去なんて気にすることはないのに。引き出しから出てきた女物の古い手帳は、私の思考を狂わせる。過去の亡霊に囚われ、まるで「レベッカ」みたいね、と嘲笑する。



おかしいでしょう?冬でも布団を蹴り飛ばし、寒くて壁に頬擦りするほど寝相が悪い、あのわたしが。ここしばらく、抱き枕のひとつさえも落とさず、ベッドメイクがいらないくらい綺麗な朝を迎えるなんて。ねえ、もしかして。呼吸がしづらくて苦しかったあの夜から、中身が違うなんてこと、ないよね?



(#ゾンビが大量発生した体でツイートする)
今、押入の中にいます。さっきまでお風呂に入っていたので髪はまだ濡れているし、寝間着も着ていません。まさか大人になってからかくれんぼをするとは思いませんでした。今はただ、鬼に見つからないよう、がちがち鳴る奥歯を必死に押さえつけ、祈るだけです。


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