しあわせににおいがあったら、(掌編集)

雛人形は出さなかった。ちらし寿司や蛤のお吸い物も食べなかったし、白酒も飲まなかった。食べたものといえばおばが持って来た桜餅だけ。ふと、押し入れに長年しまい込まれた雛人形を想う。暗くて狭く、荷物で溢れたあの押し入れを。そこはさぞ寒かろう。来年は久しぶりに飾ってみようかな、なんて。



朝寝ぼけ眼で布団をたたむのが好き。窓を開けて、新鮮な春の空気を部屋に満たすのが好き。ドリッパーにお湯を注いで、ゆっくりとサーバーに溜まっていくコーヒーを見ているのが好き。こんがり焼いたパンの匂いが好き。一日の始まりは、好きがいっぱいなのです。



彼が「平成の間にやりたいことリスト」を作り始め、思いつくと書き加えている。ただしその内容は「エベレストに登る」だとか「コピ・ルアクを飲む」だとか。コピ・ルアクはまだしもエベレストには登れるかしら。とりあえず週末は美味しいコーヒーを飲んで、日和山に登る。そこから始めよう。



今日はいつもよりずっと早起きして、ぽかぽかの空気を部屋にお迎えして、お布団を干して。棚のほこりをおろして床をぴかぴかにみがいた。夜部屋に戻って来たとき、素足にすべすべの床を感じるのが気持ち良い。たぶんこのあと横になるお布団も気持ち良い。



ショートケーキのいちごを僕は最初に食べる。誰にもとられたくないからだ。彼女は最後に食べる。もし今世界が終わるなら最期に好きなものを食べたいかららしい。「それ世界滅亡で自棄を起こした悪人にとられるぞ」言いながらいちごをフォークで刺すと、彼女は世界が滅亡したような顔をした。



風が強い。出掛けにしっかりセットした髪が縦横無尽に飛び回り、容赦なくスカートが捲れ上がる。それでもその自由奔放な風は暖かい。本格的な春はもうすぐだ。それにどれだけ髪や服が乱れても気分が良い、のは、風のおかげで今夜のメニューが決まったからだろうか。今夜はカレーだ。



買ったきりずっと履いていなかったクリーム色のパンプスで出かけた。いつもよりずっと踵の高いその靴は、わたしの背筋をしゃんと伸ばし、いつもは見えない景色を見せ、気分を新しくした。空が近いような気がする。屋根でお昼寝する猫を撫でられそうな気がする。できたら雲を千切って食べたい。



学生時代、屋上に続く階段の踊り場を部室として使ってたじゃない。誰も来ない西側の階段だったし。天気が良い日はそのまま屋上に出てさ。あそこ今、荷物置き場で、屋上は封鎖されてるんだって。私たちの思い出を知らない誰かが、思い出に荷物を置いて、思い出を封鎖したんだね。



「お弁当も作ったのに残念だね」窓を叩く雨を見ながら呟くと、彼は突然リビングにレジャーシートを敷き、お弁当や缶ビールを並べ、ノートパソコンに桜の画像を映し「お花見始めようか」と言った。辺り一面の桜も、花の香りも、賑やかな声もない。それでもわたしは、このお花見をずっと忘れないだろう。

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