しあわせににおいがあったら、(掌編集)
私たちは別の道を進むんだよ(悲しい恋愛、失恋)
まだ雪が残っている頃、雪を割るようにして咲き出すから、というのが雪割草の由来らしい。あなたもこの一面の雪が溶ける頃には、ここに戻ってくれるだろうか。私はこの白銀の世界で、必ず戻るよ、という言葉を信じて待ち続けるしかない。たとえこの身が凍りついて、砕けてしまったとしても。
彼の夢のために別れる、なんて時代遅れなのかもしれない。それでもわたしは、こうするしかなかった。「さよなら」と悲しげに言う彼に笑顔を向け「さよなら」と返した。ああ、どうか。嘘吐きなわたしのことなんて忘れて夢を叶えて。平気な顔で嘯いたことを、後悔させないで……。
好きという想いが大きければ大きいほど、痛みが生じる。痛いのは嫌い。でもわたしは、きみを好きにならずにはいられないから、痛みを我慢することに決めた。わたしが知らない誰かと楽しそうに話すきみに目を向けたら、全身を切り裂かれ、粉々に噛み砕かれているような感覚に陥った。
「会えるときに連絡する」と彼が言うから、わたしはその時を待った。幾日も幾日も、会いたい気持ちを押し殺した。いつしかそれは普通になり、日常になった。わたしは今日も、鳴らないスマホを傍らに、日常を過ごす。
あなたが普段食べているものを、わたしも食べてみたかったから。「俺んち来ない?」という誘いを喜んで受けたけれど。出された料理を「美味しいです」と繰り返しながら食べているうちに、だんだん後悔してきた。お皿の趣味良いですね、盛り付け素敵ですね、奥さん料理上手ですね、……。
頭のてっぺんにぽたりと雫があたった。出処を確認しようにも、逞しい腕にがっしりとホールドされているから不可能だった。「このまま溶けてひとつになれればいいのに」続いて濡れた声も降ってきたけれど、私は口を固く閉ざす。人は溶けてひとつにはなれないよ。私たちは別の道を進むんだよ。
#珈琲に角砂糖を十個入れる理由
最初は一個だったの。でも、これは部活の先輩、これは同級生。先生、大学の同期、バイト先の店長、上司、同僚、バーテンダーに本屋の店長。失恋の度に砂糖が増えていってね。十個の角砂糖で傷付いた心を慰めて、甘やかしているの。いいこいいこして、癒しているの。
心に負った傷の上に、また同じだけの傷を作れば、古い傷は消えてくれるのではないか、と。意味不明な理論を掲げ、わたしは今日も、見知らぬ人とお酒を呷る。ねえ、いつか答えてくれるかな。わたしたちのあの日々に、意味はあったよね?
あの人がわたしじゃない誰かを見ていることを知っている。あの人にとってわたしは360度どこにでもいる通行人のひとりでしかないことを知っている。あの人がわたしを見てくれる可能性はゼロだということも知っている。わたしが勝手に好きになった。好きにならないこともできたのに。わたしの負けだ。
もう二度と会えないでしょうから告白します。大雪が降った二月のあの日、あなたの車のボンネットに小さな雪だるまを置いたのは、店の駐車場の雪かきに出たわたしです。でも大雪の深夜に車の雪下ろしをするのは大変でしょうから、その手間が省けたでしょう?
最近よく思うんです。あなたの車の助手席に座った最初で最後の日に、気持ちを伝えていたらって。当時のわたしはすでに分別がつく年齢で、あなたとどうこうなりたいなんて思っていなかったけれど。「好きでした」と伝えてさえいたら、こんなに後悔はしなかったのかなって。