ぼくらは薔薇を愛でる
「いらっしゃいませ」
この声すら、陳列されている本に吸収されて居そうなほどに静かな店内。仕立て屋の目の前にある書店へ入った。クラレットはぐるっと見回して、天井まで届きそうな本棚の間をゆっくり歩き始めた。釣りの専門書、乗馬のコツ、経済の本、自己啓発、心理、色々な本が並ぶが、肝心の手芸の本が見当たらない。
――向こうの棚も見てみよう……
トツトツと静かな足音を立てて本棚の曲がり角を曲がれば、窓に面した本棚の前に背の高い脚立があった。
「あ、いらっしゃい。邪魔ですか?」
頭上から声が聞こえた。見上げれば黒い髪をした少年が脚立の一番上に居て、彼と視線が合った。
――あれっ。
クラレットは、胸の痣がチリっとしたように感じた。対して脚立の上の少年も一瞬動きを止めていた。片手に数冊の本を持ち、紺色の前ポケットがあるだけのエプロンを着けている。一番上の段に跨いで座りながら、どうやら本の整理をしているようだった。問いかけられた事を思い出し、いいえ、と首を横に振ったところで店の奥から声が響いた。
「レグー! そこ終わったら倉庫だぞ」
「はあーい!」
元気よく返事をした、レグと呼ばれた彼は舌を出してクラレットに笑いかけた。
「親方いつもああなんだ、人使い荒いんだぜ」
そう言いながら肩をすくめ、脚立から降りはじめた。床に降り立つとクラレットに危なくないようそれを折りたたんで抱え振り返る。
背はクラレットより少し高いくらい。背筋を伸ばして立つ姿はきちんとしていて、黒い前髪の奥に見える青い瞳を見て、また先ほどと似た感覚を覚えた。胸の痣のチリっとした感覚は消え失せていたが、ざわつくような、むず痒いような、そんな感覚だった。
「なにか本を探してるの? 手伝う?」
「う、ううん、平気! 今日は見に寄っただけなの、また来ます」
おじぎをし、店の入り口に居たパープルに駆け寄って声をかけ、そのまま店を出た。
「あとどこに寄りますか?」
「もう今日は疲れちゃった、宿に帰る」
「そうしましょう、日も傾いてきましたしね」
――あの子なんなの、レグって呼ばれてたわ。レグっていう名前なのね……本屋さんの子なの? 親方って言ってた、働いているの? それに、どうしてあの時、あれって思ったのかな。
宿へ戻るまで、ずっと、書店の少年のことを考えていた。
* * *
焼き立てパンの香ばしい香りが街に充満する頃、レグは屋敷を出て今の勤務先である書店に向かった。店の前に置かれている、取り寄せた本の箱を確認して台車に乗せ、店の裏手から倉庫に運び入れる。そうしてから店の前を掃除して、店内の掃除をする。上の方の棚からハタキをかけ、乱れた本を並び替える。
――そういや、昨日の子、何か本を探してたんじゃないのかなあ。また来るって言ってたから今日も来るかな。
だが、レグが待っていた客はやって来なかった。新しく本が入荷した事もあって午前中は忙しく過ぎ、遅めの昼を摂るため屋台街に向かっていたところで、気になる二人連れを見かけた。背の高い女性と、赤みのかかった茶色い髪の女の子だ。青色のワンピースを着ていて、その両手には大きな紙袋が抱えられていた。傍の女性も同様で、片手で袋を抱えている。女の子より少し後ろを歩いているが、左右を常に気にしており、レグにはあれが侍女で護衛である事がすぐに判った。城にいる彼らと同じだ。
――どこかの令嬢か?
昼を買い、広場のベンチで食べようと腰掛ける時、何気なく辺りを見回していたら、彼女達がこちらに向かってくるのが見えた。
「やあ! 昨日来てくれた子だよね、今日は寄っていかないの?」
思わず立ち上がり、彼女たちの真正面に立って声をかけた。突然の声かけだったから侍女は警戒を顕にし、咄嗟に女の子の前に半身、足を前に踏み出して空いている手で庇った。
――おっと、警戒させてしまったな。
「あ、本屋さんの――レグ様」
「名前覚えてくれたの? 嬉しい! 改めてよろしく、僕はレグ。様はいらないよ」
「えと、クラレット、です」
レグはクラレットにベンチを勧めた。手に抱えた荷物を置いて、レグの隣にちょこんと腰掛ける。
「僕は今お昼休憩なんだ」
そう言ってサンドイッチを頬張る。城にいた頃はこんなもの食べたことがなかった。パンはいつも丸いもので、そのパンにおかずを挟むなんてものは街に降りてきて初めて目にしたものだから、気に入っていつも食べていた。食べている時はしゃべるものじゃない。だから、口に入れたものをよく噛んで飲み下すまで一言も発せずにいたが、クラレットはそんなレグを見つめていたと思ったら、飲み下したところでクラレットが口を開いた。
「あの本屋さんで働いているの?」
「うん、そう。けど、社会勉強だね。それで君は今日も店に来る?」
瓶に入ったオレンジジュースを何口か飲んで聞き返した。
「今日はもう。あの、明日なら伺います、手芸の本が欲しいので」
「明日は何時ごろ? 僕居ないかもしれない。でも手芸の本ならまとめて並べておくよ」
「ありがとう。行けるのは――」
傍に立つパープルを見上げる。
「今頃の時間でしたら行けるかと思います、よろしいでしょうか」
「うん、わかった。あ、本ににおいが移っちゃうから、明日は手ぶらで来て」
荷物を指差してウィンクするレグに、ドキリとするクラレット。ふわっと風に吹かれて前髪が持ち上がった拍子に左目の下にある泣きぼくろが見えた。かわいい。
――はっ! 男の子にかわいいだなんて!
「で、では失礼します、また明日」
顔を赤らめつつ、お辞儀をするクラレットに、また明日、と手を小さく振れば、ためらいがちに振り返してくれた。
――かわいい……。
「――お嬢様、お顔が紅うございますよ、お熱でも」
「おおおお腹が空いてるだけよ?!」
侍女とクラレットのそんな会話が街の音に、姿が雑踏に消えていくのを見届けて、レグは立ち上がった。
なんだか面白いことが起きるような、明日からも楽しみがひとつできたような、そんなワクワク感が胸に拡がっていた。
この声すら、陳列されている本に吸収されて居そうなほどに静かな店内。仕立て屋の目の前にある書店へ入った。クラレットはぐるっと見回して、天井まで届きそうな本棚の間をゆっくり歩き始めた。釣りの専門書、乗馬のコツ、経済の本、自己啓発、心理、色々な本が並ぶが、肝心の手芸の本が見当たらない。
――向こうの棚も見てみよう……
トツトツと静かな足音を立てて本棚の曲がり角を曲がれば、窓に面した本棚の前に背の高い脚立があった。
「あ、いらっしゃい。邪魔ですか?」
頭上から声が聞こえた。見上げれば黒い髪をした少年が脚立の一番上に居て、彼と視線が合った。
――あれっ。
クラレットは、胸の痣がチリっとしたように感じた。対して脚立の上の少年も一瞬動きを止めていた。片手に数冊の本を持ち、紺色の前ポケットがあるだけのエプロンを着けている。一番上の段に跨いで座りながら、どうやら本の整理をしているようだった。問いかけられた事を思い出し、いいえ、と首を横に振ったところで店の奥から声が響いた。
「レグー! そこ終わったら倉庫だぞ」
「はあーい!」
元気よく返事をした、レグと呼ばれた彼は舌を出してクラレットに笑いかけた。
「親方いつもああなんだ、人使い荒いんだぜ」
そう言いながら肩をすくめ、脚立から降りはじめた。床に降り立つとクラレットに危なくないようそれを折りたたんで抱え振り返る。
背はクラレットより少し高いくらい。背筋を伸ばして立つ姿はきちんとしていて、黒い前髪の奥に見える青い瞳を見て、また先ほどと似た感覚を覚えた。胸の痣のチリっとした感覚は消え失せていたが、ざわつくような、むず痒いような、そんな感覚だった。
「なにか本を探してるの? 手伝う?」
「う、ううん、平気! 今日は見に寄っただけなの、また来ます」
おじぎをし、店の入り口に居たパープルに駆け寄って声をかけ、そのまま店を出た。
「あとどこに寄りますか?」
「もう今日は疲れちゃった、宿に帰る」
「そうしましょう、日も傾いてきましたしね」
――あの子なんなの、レグって呼ばれてたわ。レグっていう名前なのね……本屋さんの子なの? 親方って言ってた、働いているの? それに、どうしてあの時、あれって思ったのかな。
宿へ戻るまで、ずっと、書店の少年のことを考えていた。
* * *
焼き立てパンの香ばしい香りが街に充満する頃、レグは屋敷を出て今の勤務先である書店に向かった。店の前に置かれている、取り寄せた本の箱を確認して台車に乗せ、店の裏手から倉庫に運び入れる。そうしてから店の前を掃除して、店内の掃除をする。上の方の棚からハタキをかけ、乱れた本を並び替える。
――そういや、昨日の子、何か本を探してたんじゃないのかなあ。また来るって言ってたから今日も来るかな。
だが、レグが待っていた客はやって来なかった。新しく本が入荷した事もあって午前中は忙しく過ぎ、遅めの昼を摂るため屋台街に向かっていたところで、気になる二人連れを見かけた。背の高い女性と、赤みのかかった茶色い髪の女の子だ。青色のワンピースを着ていて、その両手には大きな紙袋が抱えられていた。傍の女性も同様で、片手で袋を抱えている。女の子より少し後ろを歩いているが、左右を常に気にしており、レグにはあれが侍女で護衛である事がすぐに判った。城にいる彼らと同じだ。
――どこかの令嬢か?
昼を買い、広場のベンチで食べようと腰掛ける時、何気なく辺りを見回していたら、彼女達がこちらに向かってくるのが見えた。
「やあ! 昨日来てくれた子だよね、今日は寄っていかないの?」
思わず立ち上がり、彼女たちの真正面に立って声をかけた。突然の声かけだったから侍女は警戒を顕にし、咄嗟に女の子の前に半身、足を前に踏み出して空いている手で庇った。
――おっと、警戒させてしまったな。
「あ、本屋さんの――レグ様」
「名前覚えてくれたの? 嬉しい! 改めてよろしく、僕はレグ。様はいらないよ」
「えと、クラレット、です」
レグはクラレットにベンチを勧めた。手に抱えた荷物を置いて、レグの隣にちょこんと腰掛ける。
「僕は今お昼休憩なんだ」
そう言ってサンドイッチを頬張る。城にいた頃はこんなもの食べたことがなかった。パンはいつも丸いもので、そのパンにおかずを挟むなんてものは街に降りてきて初めて目にしたものだから、気に入っていつも食べていた。食べている時はしゃべるものじゃない。だから、口に入れたものをよく噛んで飲み下すまで一言も発せずにいたが、クラレットはそんなレグを見つめていたと思ったら、飲み下したところでクラレットが口を開いた。
「あの本屋さんで働いているの?」
「うん、そう。けど、社会勉強だね。それで君は今日も店に来る?」
瓶に入ったオレンジジュースを何口か飲んで聞き返した。
「今日はもう。あの、明日なら伺います、手芸の本が欲しいので」
「明日は何時ごろ? 僕居ないかもしれない。でも手芸の本ならまとめて並べておくよ」
「ありがとう。行けるのは――」
傍に立つパープルを見上げる。
「今頃の時間でしたら行けるかと思います、よろしいでしょうか」
「うん、わかった。あ、本ににおいが移っちゃうから、明日は手ぶらで来て」
荷物を指差してウィンクするレグに、ドキリとするクラレット。ふわっと風に吹かれて前髪が持ち上がった拍子に左目の下にある泣きぼくろが見えた。かわいい。
――はっ! 男の子にかわいいだなんて!
「で、では失礼します、また明日」
顔を赤らめつつ、お辞儀をするクラレットに、また明日、と手を小さく振れば、ためらいがちに振り返してくれた。
――かわいい……。
「――お嬢様、お顔が紅うございますよ、お熱でも」
「おおおお腹が空いてるだけよ?!」
侍女とクラレットのそんな会話が街の音に、姿が雑踏に消えていくのを見届けて、レグは立ち上がった。
なんだか面白いことが起きるような、明日からも楽しみがひとつできたような、そんなワクワク感が胸に拡がっていた。