ぼくらは薔薇を愛でる
小さな主とシェフ
厨房の窓から見える空はオレンジ色が濃くなってきて、東の方はもう夜色の空に変わった。
もうすぐかな。
この屋敷の俺たちの小さな主は、朝早くから街に出て働き、日が暮れる頃に帰宅する。本来ならこんなところに居る方では無い。王子様の考える事はわからない。だが、レグ様は街の暮らしに馴染んでいてイキイキもされている。より広い視野を持つには必要な経験なのだろう。
そんな事を考えながら、間も無く帰宅するであろう主のための、夕食の支度を早めた。
「ただいま」
「おかえりなさいませ。いつものかごはお部屋の前に、お湯は用意してございます」
「うん、ありがとう。先にお湯をいただいてから食堂へ降りるよ」
かしこまりました、という、いつもの会話が厨房にも微かに聞こえてきた。
この屋敷の小さな主、レグ様が帰宅された。
帰宅したとは言え、レグ様の仕事はあと少し残っている。はじめに取り決めたように、ベッドメイキングと簡単な洗濯、部屋の掃除はご自身がなさる。掃除を終えたら風呂に入り、洗濯物を洗濯室へ運ぶまでやって、ようやく一日の仕事が終わり、最後に食堂に姿を現す。
あの足音は機嫌が良いな。さあて、今日はどんなお話をしてくださるかな。
レグ様は食事をとる間、厨房の俺に、この日一日に何があったかを話してくださる。朝屋敷を出てから職場に着いて、それから昼飯の事、変わったお客さんの事、親方から叱られた事などを細かく話してくださるが、こちらからも時にはアドバイスじみた事を返すし、愚痴には賛同もする。間違えていると思えば指摘もする。レグ様が城で過ごすだけの王子様だったならこんな時間は訪れていないわけで、そう思うと俺はこの時間がとても好きで、毎日待ち遠しい時間だった。
「おかえりなさい、レグ様、お疲れさまでした。今日は叱られませんでしたか」
洗濯室から食堂へやってきたレグ様に声をかけながら、皿に料理を盛り付け、トレイに並べ始めた。
「毎日叱られてたまるかよ。今日はなに?」
不貞腐れた感じの、少しだけ大人ぶった返事が返ってきたものの、カウンターに上体を預けてトレイが出てくるのを、ワクワクした目つきで待つ姿はただの子どもで愛らしい。
「根菜のスープ、チキンと青菜のキッシュ、サラダです。足りなければおかわりもありますよ」
「やった、キッシュ大好き!」
王子として城にいる時とは口調も違う。ここへ来た当初は王子たる話し方だったが、次第に街の子供らしい話し方に変わっていった。これが良いことなのかどうか俺にはわからないが、少なくとも今の方が親しみやすいし、年相応でもある。身分だってこれならバレそうも無いから、おそらく良いのだろう。
「レグ様、オレンジジュースはいるかい?」
好物のオレンジは欠かさず仕入れるようにしている。両手にオレンジを掲げて見せれば、笑顔で、うんと頷いたのを確認して、半分に切ったオレンジを圧搾器にかけ、グラス一杯のジュースを搾り料理の乗ったトレイに追加で置いた。
「ありがと、いただきます!」
元気よくテーブルに向かう様子を厨房内から見守っていると、席に着いて食べ始めたと同時にこちらに顔を向けて言ってきた。
「今日は女の子に出会ったよ」
女の子の話は初めてではないだろうか。叱られた話は割と多くて、次に面白いお客さんの話、困っていた方を助けた話は聞いてきたが。
「お、いいですねえ、どんな子ですか」
カウンター内部から身を乗り出して聞いた。
「んー、たぶん……旅行者かな。侍女を連れていたからどこかの令嬢かもしれない。両手にね、ふふっ」
フォークに切り分けたキッシュを刺したまま動きを止めて思い出し笑いをした。
おや、レグ様が笑顔になるなんて。
キッシュを口に含んでもぐもぐと咀嚼する。サラダを食べ、スープを一口飲んだ。ひと息ついてレグ様は続けた。
「あのね、いろんな店の袋を抱えてたんだけど、かわいかったんだよ。菓子店の袋でしょ、仕立て屋の袋も大きいの抱えてた。本も持ってたかな。それと侍女も袋を抱えていた。赤みの強い茶色の髪をしていて、菓子の袋が一番大きくて、それは彼女がしっかり抱えてて……ふふ。何をあんなに買ったんだろうね。彼女の周りの空気はやわらかくて、とてもかわいくて……うん、かわいかった……」
「へえ〜、二度言うくらいタイプだったってことか〜?」
ニヤニヤと冷やかせば、レグ様は頬を赤くして反撃してきた。
「いや! タイプとか、そんな! 簡単な言葉で!」
「次に会えたら、ぜひお茶にお誘いしたらどうです? その時はレモンタルトでも何でも腕を振いますよ!」
サムズアップを見せる。
「お茶に誘うって……早いだろ!? だが、そうだな、会えたら、誘ってみようかな。もっと話がしてみたいとは思ったんだ。……ありがとう」
言葉の後半は小声だったが、確かに聞こえた。
これは……ひょっとしたら王子の初恋なのでは無いかしら。
それならこれ以上揶揄うのはやめよう。鼻歌混じりに厨房の片付けを始めた。
レグ様は王子様だ。社会勉強のためだとこの街に来てからは毎日、朝から夕方まで頑張っておられる。数年後には学園へ入られるから、それまでの間に、身分関係なく仲良くなれそうな人と出会えたなら、その関係を深めてもらいたい。きっとそれは生涯に渡っての大きな支えになる。……例え女の子でもいい。
王子の恋となると婚姻がつきまとうが、それでも応援したいと、この屋敷の皆も同じ思いなのだ。
もうすぐかな。
この屋敷の俺たちの小さな主は、朝早くから街に出て働き、日が暮れる頃に帰宅する。本来ならこんなところに居る方では無い。王子様の考える事はわからない。だが、レグ様は街の暮らしに馴染んでいてイキイキもされている。より広い視野を持つには必要な経験なのだろう。
そんな事を考えながら、間も無く帰宅するであろう主のための、夕食の支度を早めた。
「ただいま」
「おかえりなさいませ。いつものかごはお部屋の前に、お湯は用意してございます」
「うん、ありがとう。先にお湯をいただいてから食堂へ降りるよ」
かしこまりました、という、いつもの会話が厨房にも微かに聞こえてきた。
この屋敷の小さな主、レグ様が帰宅された。
帰宅したとは言え、レグ様の仕事はあと少し残っている。はじめに取り決めたように、ベッドメイキングと簡単な洗濯、部屋の掃除はご自身がなさる。掃除を終えたら風呂に入り、洗濯物を洗濯室へ運ぶまでやって、ようやく一日の仕事が終わり、最後に食堂に姿を現す。
あの足音は機嫌が良いな。さあて、今日はどんなお話をしてくださるかな。
レグ様は食事をとる間、厨房の俺に、この日一日に何があったかを話してくださる。朝屋敷を出てから職場に着いて、それから昼飯の事、変わったお客さんの事、親方から叱られた事などを細かく話してくださるが、こちらからも時にはアドバイスじみた事を返すし、愚痴には賛同もする。間違えていると思えば指摘もする。レグ様が城で過ごすだけの王子様だったならこんな時間は訪れていないわけで、そう思うと俺はこの時間がとても好きで、毎日待ち遠しい時間だった。
「おかえりなさい、レグ様、お疲れさまでした。今日は叱られませんでしたか」
洗濯室から食堂へやってきたレグ様に声をかけながら、皿に料理を盛り付け、トレイに並べ始めた。
「毎日叱られてたまるかよ。今日はなに?」
不貞腐れた感じの、少しだけ大人ぶった返事が返ってきたものの、カウンターに上体を預けてトレイが出てくるのを、ワクワクした目つきで待つ姿はただの子どもで愛らしい。
「根菜のスープ、チキンと青菜のキッシュ、サラダです。足りなければおかわりもありますよ」
「やった、キッシュ大好き!」
王子として城にいる時とは口調も違う。ここへ来た当初は王子たる話し方だったが、次第に街の子供らしい話し方に変わっていった。これが良いことなのかどうか俺にはわからないが、少なくとも今の方が親しみやすいし、年相応でもある。身分だってこれならバレそうも無いから、おそらく良いのだろう。
「レグ様、オレンジジュースはいるかい?」
好物のオレンジは欠かさず仕入れるようにしている。両手にオレンジを掲げて見せれば、笑顔で、うんと頷いたのを確認して、半分に切ったオレンジを圧搾器にかけ、グラス一杯のジュースを搾り料理の乗ったトレイに追加で置いた。
「ありがと、いただきます!」
元気よくテーブルに向かう様子を厨房内から見守っていると、席に着いて食べ始めたと同時にこちらに顔を向けて言ってきた。
「今日は女の子に出会ったよ」
女の子の話は初めてではないだろうか。叱られた話は割と多くて、次に面白いお客さんの話、困っていた方を助けた話は聞いてきたが。
「お、いいですねえ、どんな子ですか」
カウンター内部から身を乗り出して聞いた。
「んー、たぶん……旅行者かな。侍女を連れていたからどこかの令嬢かもしれない。両手にね、ふふっ」
フォークに切り分けたキッシュを刺したまま動きを止めて思い出し笑いをした。
おや、レグ様が笑顔になるなんて。
キッシュを口に含んでもぐもぐと咀嚼する。サラダを食べ、スープを一口飲んだ。ひと息ついてレグ様は続けた。
「あのね、いろんな店の袋を抱えてたんだけど、かわいかったんだよ。菓子店の袋でしょ、仕立て屋の袋も大きいの抱えてた。本も持ってたかな。それと侍女も袋を抱えていた。赤みの強い茶色の髪をしていて、菓子の袋が一番大きくて、それは彼女がしっかり抱えてて……ふふ。何をあんなに買ったんだろうね。彼女の周りの空気はやわらかくて、とてもかわいくて……うん、かわいかった……」
「へえ〜、二度言うくらいタイプだったってことか〜?」
ニヤニヤと冷やかせば、レグ様は頬を赤くして反撃してきた。
「いや! タイプとか、そんな! 簡単な言葉で!」
「次に会えたら、ぜひお茶にお誘いしたらどうです? その時はレモンタルトでも何でも腕を振いますよ!」
サムズアップを見せる。
「お茶に誘うって……早いだろ!? だが、そうだな、会えたら、誘ってみようかな。もっと話がしてみたいとは思ったんだ。……ありがとう」
言葉の後半は小声だったが、確かに聞こえた。
これは……ひょっとしたら王子の初恋なのでは無いかしら。
それならこれ以上揶揄うのはやめよう。鼻歌混じりに厨房の片付けを始めた。
レグ様は王子様だ。社会勉強のためだとこの街に来てからは毎日、朝から夕方まで頑張っておられる。数年後には学園へ入られるから、それまでの間に、身分関係なく仲良くなれそうな人と出会えたなら、その関係を深めてもらいたい。きっとそれは生涯に渡っての大きな支えになる。……例え女の子でもいい。
王子の恋となると婚姻がつきまとうが、それでも応援したいと、この屋敷の皆も同じ思いなのだ。