薄幸ノ人妻ハ妖シキ鬼ノ愛ヲ知ル
「旦那様が今晩、帝国軍の方をお屋敷にお招きになるそうですが……奥様、ご存知でした?」

 女中の言葉に私は首を横に振った。そんな事、私が知っているはずがない。

「屋敷でおもてなしになるそうですよ。ウメさんなんて、知り合いの芸妓を呼ぶと張り切っているみたいで」

 だから最近、彼女があちこちに出かけて忙しそうにしていたのか。私はその話を聞きながら深く頷いた。旦那様は妾であるウメさんには話をしたのに、私の耳には届いていなかった。わざとだったのか、うっかり忘れていただけなのか。けれど、蚊帳の外になっていた事だけは事実。女中は仕出し屋に料理を頼みに行くと言って外出していった。私は一人、広い屋敷に取り残される。しんと静まり返る屋敷は何だか珍しい、普段ならウメさんの話し声や三味線の音が聞こえてくるのに。私は自室の前の縁側に座り、ぼんやりと足を揺らしていた。頭の中は、あの日であった軍人さんで占められていた。

(……鬼頭様もお見えになるのかしら?)

 夕方になり、にぎやかな声が玄関から聞こえてきた。旦那様は嬉しそうにやってきた帝国軍の方をもてなし、大広間まで案内していく。裏口からは次々に芸妓がやって来て、鼻高々な様子でウメさんが連れて行っていた。女中は料理やお酒の準備で忙しく、私は少し手伝ってみたけれど、どうやら私がそこにいると邪魔な様子だった。たすき掛けを外し、私は大広間の近くで座り込んだ。空を見上げると月がぽっかりと浮かんでいるのが見える。息を吐くと白くて、冬がもうそこまで来ていることが分かった。肌寒さを感じていた時、足音が近づいて来ているのに気づいた。

「こんな所にいたら風邪をひきますよ」
「……鬼頭様っ!」

 その声に顔をあげると、昼間から私の頭の中を占めていた鬼頭様の姿があった。頬がほんのりと赤くなっていて、お酒を飲んでいたのが分かる。私の声はわずかにうわずってしまう。

「いらっしゃっていたのですね」
「えぇ。奥様がご挨拶にくると思っていて待っていたのですが、いつまで経っても来ないので探しに来ました」

 鬼頭様はそう言って、私の隣に座る。そして、大きく息を吐いた。苦しそうに軍服の釦を外していく。

「お水でもお持ちしましょうか?」
「いいんですか? 助かります」

 私は急いで台所まで走って、グラスに水を汲み、鬼頭様の元に運んだ。彼はそれを受け取るとすぐに喉を鳴らして一気にあおった。どうやら喉が渇いていたみたいだった。

「ありがとうございます。どうも酒には弱くて」
「そうなんですね。意外です」
「よく言われます」

 鬼頭様の赤い瞳が月を見上げる。私は彼の横顔をじっと見つめていた。スッとした鼻立ちは、私や旦那様のような丸っこい鼻とは少し違うようにも見えた。これも鬼と人の違いなのかもしれない。ふっと視線を逸らすと、彼の軍服の釦が取れかかっていることに気づいた。

「あの、鬼頭様」

 私が小さな声で呼びかけると、彼は首を傾げた。釦が外れかかっていることを伝えると、彼は「本当だ」と指先でそれを摘まんだ。

「差し出がましいようですが、私が直してもよろしいですか?」
「え? いいんですか? 助かります」

 針仕事も苦手なんですよ、と鬼頭様は明るく笑った。私は急いで、今度は裁縫道具を持つ。もしかしてと考えて肩掛けも持ち、彼の元に向かう。彼はすでに軍服を脱いで待っていた。

「お寒いでしょう、こちらをかけて待っていてください」

 肩掛けを渡すと、鬼頭様はまたあの柔らかい笑みを私に向けてくれる。私の胸はその笑顔を見てまた疼いていた。まるで痛みのような疼きを感じながら、私は釦を縫い付けていく。針を持つ指先が何だかくすぐったくて顔をあげると、鬼頭様がじっと私の手を見つめていた。それが恥ずかしくて、私は気づいていないふりをした。糸を切り上着を彼に返すと、彼は「見事ですね」と軽く手を打った。

「大したことはしていませんよ」
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