契約違反ですが、旦那様?
時を経て美奈子には当時のことをとても怒られたが、それで美奈子は助かったのも事実だ。
なんせ、美奈子は乳飲み子を抱えたまま自分の店を持ちたかった。美奈子には稼ぐ手段などそれしかない。
今更昼職などできない。稼ぎの額を考えればちまちま働くのもアホらしい。それに28歳にもなって昼職未経験というキャリアはどこの会社が雇ってくれるんだと美奈子自身もわかっていた。おまけに夜職をしていただけで軽い女だと思われる。職場でトラブルにならない自信がなかった。しかし、自分と子どもを食べさせていかないといけない。手っ取り早くどこかの店に入店するのが早いだろう。だがまた一からやり直すのも面倒くさい。店によってターゲットの年齢層もある。店を転々とする将来を考えると自分で店をする方がいい。
そう思い至って、テナントを探した。でも足元を見られたり、美奈子の状況から芳しい答えが出ない。
悉く門前払いされて、軽くパニックになっていた。そしてそんな時かつての同級生に出逢った。捕まえるしかなかった。
美奈子の記憶では樹莉は偏差値の高い高校に入学した。風の噂で良い大学に入ったとも聞いていた。
とりあえず話だけでも、と縋りついてなんとか承諾してもらった。腕に1歳の息子を抱えながら泣きながら樹莉に話をした。
そしたら樹莉が「名前を貸してあげる」と言った。美奈子は正直言うと「何言ってるんだ、この女」と思った。
とはいえ、樹莉だって話を聞けば他に方法はなかった。理由は明瞭だ。美奈子の言うとおり、職も持たず幼い子どもがいて保証人がいない。家族とも疎遠。訳ありだ。テナント料はそれほどに安くない。とばれると困るというオーナー側の問題もある。よって足元を見られている現実は簡単に理解できた。だから樹莉は提案した。美奈子はしばらく放心していたが。
しかし、美奈子はこのままではやがて貯金も尽きることはわかっていた。子どももそうだが自分も生きていけない。
色んな状況をふまえて樹莉の提案に乗る方が確実だった。そして頭を下げてお願いした。
そんなわけで樹莉がオーナー、美奈子が雇われ店長をするという形で決着した。
後日、弁護士を通して契約書を交わした。もちろん、あくまで樹莉は名前だけだ。正社員なので本来なら副業禁止である。なので、ある程度軌道に乗れば、オーナー名義は美奈子に変更する約束をした。樹莉はこうしたことを契約書できっちりと決め、一時的に自分の名前を貸すことで美奈子を助けた。実際に資金の準備も含めてすべて美奈子がひとりでほとんどやり遂げけてしまった。樹莉はテナント探しに付き合い、法人登記の資料作成を手伝い、サインをしたぐらいだ。役所への届出も代理人として美奈子が行った。
そして開店から5年経った今はもう名義も美奈子に引き継いだので樹莉はただの客でしかない。
だけど美奈子は当時の恩を感じており、樹莉が店を訪れても気安く迎えてくれる。むしろ「来るなら〇〇買ってきて」とパシられることすらある。
その代わり代金は取られたことはない。気持ちよく飲めないので「ちゃんと払いたい」と言ったが美奈子は頑なに首を縦にふらなかった。
かと言って店に行かなくなると気にする。樹莉はそれならばまあ、と美奈子の言葉に甘えることにして、輝世堂の試供品を献上することで相殺することにした。