契約違反ですが、旦那様?

 その日は特段蒸し暑かった。関東地方ではようやく梅雨明けの宣言が発表された七月も半ば。水商売なら繁忙期でもある。『スナック樹奈』(樹莉の”樹”と美奈子の”奈”※命名美奈子)も例外なく忙しかった。

 と言えども、店は美奈子のかつての客ばかりだ。その客が人を連れ、彼らが客になる。そうした紹介制のスナックはとても珍しいことだが、開店からずっとこの形で店が営業されていた。そのため、樹莉も顔見知りが多く、変な客もいない。キャストの女の子たちは20代後半から30代前半と社会人経験のある落ちついた子ばかりで、同伴やアフターなどギスギスした雰囲気のない店になっていた。そのため非常に居心地がいい。

 樹莉はいつものようにカウンターの隅でひとり飲みながらスマートフォンを片手にファッション誌を広げていた。先日発売されたばかりの雑誌ではもう秋カラーが特集されている。今年もマットな赤が注目されており、輝世堂でも発色にこだわったリップが複数カラーが発売される予定だ。もちろん他社の化粧品ブランドも皆こぞって新色を出す。

 「美奈ちゃ〜ん、来たよ〜!」

 不意に陽気な男性の声が入口から聞こえた。チリン、とベルが来客を告げる。
 美奈子は別の卓についており、慌てて笑顔で出迎えた。

 「立川さん、いらっしゃいませ」
 「4人入れる?」
 「奥へどうぞ。ミサちゃん、8卓9卓にご案内して」

 樹莉はその様子をカウンターから眺めていた。立川という客は樹莉も知っている。
 かつての美奈子の客で今も週に2〜3回通うふと客だ。
 当時より組織でのポジションも上がり、しかし銀座時代より単価が低くなったので通いやすいと豪語している。
 いつもなら一人で来て美奈子やキャストの子たちとおしゃべりするのに、今日はどうやら違うらしい。
 ゾロゾロと立川の後ろに続く彼らをそのまま眺めていると一番最後に入ってきた男性と不意に目があった。
 しかし樹莉はなんでもなかったように視線を雑誌に戻す。

 「盛況ね」

 バタバタとキャストの一人である「ミサ」が人数分のグラスをカウンター内で準備を始めた。樹莉はカウンターの端にあり、かつ自分の手の届く場所にあるタオルスチーマーを開けて人数分のおしぼりを取り出す。カウンターのテーブルに置かれたトレンチにおしぼりと共にアイスボックスを置くとコースターとグラスが内側から置かれた。

 「嬉しいけど休憩したいですね」

 彼女たちのほとんどは昼間仕事をしている。休憩したいという気持ちはよくわかり「そうだよね」と苦笑した。
 そもそもWワークをするエネルギーがすごい。樹莉なんか30も過ぎれば休日に出かける気力さえわかない時がある。それを思えば美奈子だってエネルギッシュだ。店は夜だけだが、昼間に客と食事をしたり、誘われればゴルフだっていく。夜は子どもを寝かせて出勤し、信頼できる家政婦に帰宅まで任せた。そして保育園のイベントは絶対休まない。再会した当時の悲壮感漂う彼女はもうどこにもいなかった。

 

 
 
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