契約違反ですが、旦那様?
二階堂たちが来て二時間ほど経った頃、彼らの連れが帰り支度を始めた。呼びにきた同僚が「うちのエースは本当ちゃっかりしてるよな」なんて揶揄している。
「エース…っ、ふふふふ」
樹莉は思わず笑った。たとえそうであっても今時「エース」なんて言わない。いかにも体育会系な彼らの例えが面白かった。まあ若干馬鹿にしたところもある。
しかし、二階堂を揶揄した同僚はそう思わなかったようだ。樹莉を笑わせられたことに喜んでいる。二階堂はなんとなく樹莉が笑っている理由に気がついた。補足だが、その同僚は樹莉と一回りほど年齢差がある。かつて甲子園球場の土を踏んだことが自慢だった。ただし、踏んだだけだ。レギュラーではない。そして二階堂より社歴は浅いが年上なので樹莉が笑っている理由になんとなく気づきながらも賢く口をつぐんだ。
「連絡先聞いても?」
去り際、二階堂がポケットから携帯を取り出した。メッセージアプリを開きQRコードを提示する。だけど樹莉は微笑むだけだった。
「…そうね。今度偶然どこかで逢えたら、でどうかしら?」
これは樹莉の常套句だ。別に連絡先ぐらい交換してもいいがメッセージがくると面倒くさい。返さないわけにはいかないので適当に返すが、興味のない人と連絡をやりとりするほど暇ではなかった。だからなるだけ連絡先の交換はしたくなかった。そしてこの台詞を言えば男は勝手に勘違いする。
_______偶然どこかで逢えたら、それはもう運命なんじゃないか、と。
ちなみにこの台詞は美奈子直伝だ。正確には「もう一度逢えたら(連絡先の交換)しませんか」だ。現役時代に使っていた。
普通彼女たちのような仕事は連絡先の交換は仕事の生命線でもある。
だが美奈子は自分を安売りしなかった。連絡先を交換したけりゃもう一度来て指名しろ、と遠回しに言っていたのである。