契約違反ですが、旦那様?
その翌週、樹莉は多忙を極めていた。スケジュールは分刻み。
出社して早々にミーティングがあり、打ち合わせが続く。午後には来訪もあり、夕方にはスタジオにもいかないといけない。
そんなスケジュールこなすこと数日。樹莉は当日にポッカリと空いた予定をどうしようかと悩んでいた。担当者が体調を崩し、代替が効かないという。
ゼィゼィ言いながら電話で詫びを述べた担当者を宥めて樹莉は左手首の内側にある腕時計を見た。一度社に戻ることはできるが、その時間があるならこの後の予定のために早めに現地を訪ねておく方が無難だろう。
(お腹すいたわ)
時刻は午後二時を過ぎた。慌ただしさの中に急に余裕ができたせいか急に空腹を感じる。そして思い出したように樹莉のお腹が小さく鳴った。
(ご飯食べながらメールの処理でもしようかな)
スマホで時間を確認し、目的地へ向かう地下鉄の改札を通り抜けた。
目的地は六本木駅から歩いて10分ほどの場所あるスタジオだった。ただ、まだ時間があるので、近くのカフェに入るとする。どこで食事をしようかと考えながら、横断歩道の近くにある影になる場所で信号が赤から青になるのを待っていた。
(暑い。焼けそう)
真夏のこの時間はいちばん紫外線が強い。できればこの時間に外出はしたくないのが本音だが、そんなことを言っていると仕事ができない。
とはいえ、アスファルトの照り返しにじっとりと湿度の高いムンとした空気はその場に立っているだけで容易に人を殺せるほどの威力がある。夏の間は移動の少ないようにスケジュールを組もうと改めて考えた。
〜〜♪
手に持ったスマホが鳴る。スライドには取引先の担当者の名前が表示された。樹莉は横断歩道を渡りながらスライドをタップする。
「はい。輝世堂松木です。いつもお世話になっております」
横断歩道の青く光るライトから視線をさらに遠くへ移す。対面には樹莉と同じように横断歩道の近くで信号が切り替わるのを待っている人たちがいる。その集団も信号が赤から青に切り替わった瞬間、一斉に歩き始めた。その集団の中に見覚えのある男性が歩いていることに気づく。しかしすぐに思い出せない。いさぎよく諦めて電話に耳を傾ける。何か言われても知らず存ぜずで通そう。というか、こんな道端で会ったところで何もできない。
しかし、男も樹莉に気づいたらしい。すれ違いざまに腕を掴まれてしまった。
「覚えてる?」
突然立ち止まったふたりに周囲を歩く人たちは迷惑そうな視線を隠さずに向けた。すれ違いざまに小さく舌打ちまでされる。その音を拾いながらも自分を見下ろして嬉しそうに目を細める男に視線が釘付けだった。
『もしもし?』
電話の向こうからと困惑した声が聞こえる。男もようやくそれらを理解したのだろう。今まさに渡ってきたばかりの横断歩道を引き返しはじめた。
信号が点滅を始めて慌てて樹莉も渡る。タイトスカートにヒールのせい大股では歩けない。ちょこまかと小走りする樹莉の背中を男の大きな手の平が支えた。