契約違反ですが、旦那様?


 樹莉は電話の相手に謝罪後、電話の要件を聞き折り返す旨を伝えた。
 どちらにせよ今出先のためすぐに返事は無理だ。そして電話を切り、隣に立つ男に溜息を吐いた。
 
 「松木サン」
 「…はい」
 「人の顔見て溜息吐くって失礼じゃない?」

 樹莉に溜息を吐かれた男、二階堂昴はスマホ片手に苦笑する。
 二階堂の36年間の人生で、仕事中に溜息を吐かれたことはあるが、異性にそれも面と向かって溜息を吐かれたことはない。

 「で、覚えてるよね?」

 しかし、そんなことをいちいち気にするほど軟弱なメンタルはしていない。
 二階堂は笑顔で樹莉にスマホを差し出した。

 「…覚えていますよ」

 一方樹莉も「ここで覚えていません」ととぼけるほど天邪鬼ではない。
 はいはい、と鞄から携帯を取り出すとメッセージアプリのQRコードを提示した。

 「わかればよろし」

 二階堂が満面の笑みで頷く。そして丁度次の信号が赤から青になりかけているのを確認すると「連絡する。ゆっくり飯でも行こう。じゃあ」と背中を向けた。人波に飲み込まれていくその背中をしばらく目で追いかけてまた溜息を吐く。少々面倒くさいことになったかも、なんて内心げっそりしながらスタジオの近くにある喫茶店に向かった。

 「いらっしゃい」

 この喫茶店はひと目に付きにくい場所にあるため、いつ行っても席が空いている。樹莉の密かなお気に入りだった。70年代のブルースロックがよく流れており、雰囲気とのチグハグさが面白い。カウンターの隅に腰を掛けると、メニューを広げてすぐに注文した。

 「本日のランチセットひとつ。飲み物はアイスティーで」

 『二階堂です。よろしく』
 
 ぽこん、とメッセージとカワウソのスタンプが送られた。
 樹莉はそのメッセージに「こちらこそ」と返す。

 現地ではTシャツにデニムでよかったのに、とぼやいていた二階堂だがさすがに日本ではちゃんとしているらしかった。薄いグレーのシャツにネイビーのスラックス。クールビズと言えど、それが=だらしなく見えてはいけない。スナックで会った時より髪はピシッと固められており、綺麗に磨かれた革靴や腕時計などの装飾品が非常におしゃれで上品だった。派手すぎず、嫌味にならない程度の上級品だ。その辺につい目がいってしまうのは年齢のせいにしておく。

 さて、どうしよう。

 樹莉はもう何度目かわからないほどの溜息を吐きながら割り箸をパキっと割って、お味噌汁を啜った。

< 18 / 69 >

この作品をシェア

pagetop