契約違反ですが、旦那様?
翌週の木曜。樹莉は午後七時半を過ぎて仕事を終えた。約束の時間までまだ二十分ほどある。ただここから待ち合わせ場所には歩いても電車を使っても十分ほどかかる。よってあまり余裕はない。
だが樹莉は迷わず化粧室に飛び込んだ。今日も朝から夕方まで外出していた。外を歩いたのはほんの数分なのに汗だくだった。おかげでメイクは見事によれている。輝世堂を背負っている以上このヨレた顔面のままで会うわけにはいかない。たとえそれが先日たまたま出会った相手でもだ。
短時間ではあるがササっとメイクを直した。化粧室にある全身鏡で立ち姿をチェックする。肩が隠れる白いブラウスに汚れは見当たらない。昼にカレーを食べたが飛んでいなかったことにホッとした。ボトムは夏らしいパステルグリーンのくるぶし丈のパンツ。ベルトは細かなラメを散らばせたシルバーで派手になり過ぎずに存在感があるものだった。ヒールはグレージュとグレーのツートンカラーのもの。これは樹莉のお気に入りで最近ずっとこれだ。本当は複数の靴を履き回した方がいいらしいが。樹莉はちらりと腕時計で時間の確認をした。
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「お待たせしました」
「いや、俺も今きたとこ。何飲む?」
「ビールで」
二階堂が予約した店は銀座にある隠れ家レストランだった。入り口にはミシュランの盾まで飾られており、樹莉はギョッと目を見開いた。少々不安になりながらも案内されて店に入る。
内装は非常にカジュアルだった。ただしインテリアのセンスも品も良い。ひとつひとつのテーブルが広くゆったりと座れる。ただしテーブル席が十席ほどで、大人数にはむかない。個室もあるので接待にも使う人がいるようだ。
広げられたメニュー表には心が揺さぶられる品書きが並んでいた。ただし金額の記載がない。樹莉は思わず携帯で調べそうになった。
「それは野暮だろ」
「でも」
「俺が誘ったんだ。松木さんは気にしなくていい」
きっと樹莉の大学時代のイケメン好きな友人なら目をハートにしているところだろう。美奈子は形だけ財布を出すが「男が出して当たり前」だと思っている。樹莉はその点、どちらが出すかなんてこだわりはない。借りを作りたくない相手にはちゃんと支払う。ただここまで言われて「払います」というほど堅物じゃない。ここは素直に「ありがとう」と素直に受け取るのがいいことぐらい理解できる。