契約違反ですが、旦那様?

 それから一時間も経たないうちにふたりは東京タワーが窓一面に広がるホテルの一室にいた。女性なら誰もが憧れる外資系ホテルカンパニーの系列店だ。

 一泊軽く10万円以上するハイラグジュアリーなホテル。そのホテルの一室の窓際で樹莉は二階堂と肩を並べて都内を見下ろしていた。

 「…どうしてここまでするの」
 
 樹莉は苦笑する。ここに至る経緯は少々コントの様だった。
 
 「まさか、経験がないなんて思わなかった。迂闊な自分を恥じたよ。言いにくいことを言わせてごめん」
 「その罪滅ぼしってこと?」
 「それもあるし、初めてが俺でごめんっていう意味もあるかな」

 窓に映る彼は申し訳なさそうに眉を下げていた。
 それを樹莉は不思議そうに見て首を傾げる。

 「どうしてそう思うの?望んだのは私よ?」
 「それでもさ。確かに恋愛観を聞けばそれほど経験はないだろうとは思った。だけど、初めてかどうかは違うだろう?だったらせめていい思い出にしたい」
 「…変な人ね」

 樹莉は今夜初めて肩の力を抜いて笑った。乾杯して食べながら仕事の話をして酔いもしないうちに二階堂が例の話を始めてしまったこともある。

 しかしだからと言ってすぐに「じゃあ(ホテルに)行きましょう」とは普通ならない。おまけにこの流れで“ハジメテ”だと樹莉は二階堂に伝えた。二階堂が呆気に取られたのは言うまでもない。

「…もし、二階堂さんにこんな提案がなされなければ私はきっと一生男を知らないまま死んでいたと思うわ」
 
 少々会う頻度は多いが樹莉の中で二階堂はただの飲み友達だった。頻度が多いのは彼が日本にいる期間が限られていることを考えると許せる範囲だ。

 それに仕事の話や海外生活の話を聞くのは楽しかった。どうでもいい話も時々思い出したように話される大学時代の話も樹莉にとってとても楽しい時間だった。

 何より、いつも二階堂は誠実だった。興味のない化粧品のテクスチャーを手に乗せて真面目に意見を述べてくれた。食べて適度にしゃべって樹莉をあまり遅くならない時間に自宅へ帰してくれた。

 樹莉はいつの間にか心のどこかでそんな二階堂の態度に安心して信頼してしまっていた。

 だからこそ「結婚しないか」という言葉に驚いたし否定もした。

 だけどよくよく考えると悪い話ではない。樹莉は過去を振り返っても決してモテたわけではなかった。

 チヤホヤされる方ではあるが、ただの遊び相手にしか見られない。自分の見た目が少し派手なことは理解していた。

 それゆえ、この先二階堂以上に樹莉の考えや生き方を尊重してくれる人に出逢えるのだろうかと考えたとき自然と「断る」選択肢を消していた。

 「だからよかったの。それに二階堂さんは私の価値観を否定しなかった。初めてだと言った時も驚きはしたものの面倒くさそうな顔はしなかった。だから二階堂さんでよかったと思うわ」

 樹莉はそう言って微笑むと眼下に広がる景色のずっと遠くを見つめた。
 
 
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