契約違反ですが、旦那様?

 
 樹莉は緊張してもあまり顔に出ないタイプだった。大学の入学式の時に新入生代表挨拶をしたけれど、その時も「余裕そうだね」と言われた。その話を友人にしても「すごく堂々としてたイメージしかない」と言われた。

 それ故に気づいてもらえないし、誤解もされやすい。

 「あのね、さっきも言ったけど…本当に初めてなの。すべてにおいて」
 「うん。キスも初めてだった、ってことでいいか?」
 「…っ、う、そう、ね」

 樹莉はまだ唇の残っている感触や体温にこの先のことを考えて急に緊張してきた。さっきまでまだどこか夢見心地だった。自分にはずっとこういう機会が来るとは思っていたなかった。興味がないわけではない。樹莉だって立派な30歳を過ぎた女性だ。義務教育の中で知り得た知識だけでなく雑誌のコラムや友人の話などでそれなりに知識はある。だけど、今キスをしてようやく実感が湧いた。このホテルに入った時もまだ他人事に捉えていたことに気づく。途端に、二階堂にありのままを曝け出すことを少し怖いとさえ思い始めてしまった。

 「じゃあ緊張すること全部やってしまおうか。言い方はアレだけど慣れの問題だ。裸も見慣れればそれほど恥ずかしくない」
 「…そうね、慣れ、ね」
 「うん。ってことで一緒に風呂入る?」

 うん、と頷きそうになって慌てて言葉を飲み込んだ。今のは聞き捨てならない。

 「その方が緊張も解れる」
 「さすがにそれは」
 「これからもっと恥ずかしいことするのに?」
 「それはそれ、これはこれ」
 「さっき『(ホテル)行きましょう(キリッ)』って言ってた人と同じ人とは思えないな」

 二階堂がニヤニヤとしながら樹莉を弄る。樹莉はグッと奥歯を噛み締めて「ごめんなさい」と謝罪した。

 二階堂が大笑いしたのはいうまでもない。
 
***

 「…まだ濡れてるわよ?」

 樹莉は先にシャワーを浴びさせてもらった。綺麗なバスルームを使用する権利は樹莉にあると昴が譲ってくれた。ホテルにしてはまあまあ広いバスルームだ。しっかり足を伸ばせる。外資系化粧品メーカーのアメニティでメイクを落とした。思わず肌なじみや化粧水のテクスチャーの状態を観察してしまったのは職業病だと思う。でもおかげで少し気分がまぎれた。

 ここまできたら「どうにでもなれ」だ。さっきまであれだけ戸惑っていたのに腹が決まった、と言う方が正しいだろうか。そんなこんなで樹莉がシャワーを浴びて出てくると、入れ違いで二階堂が入った。冷蔵庫の中にあるものは自由に飲んでいい、とのことで遠慮なく水が入ったペットボトルを開ける。それを飲みながら携帯を触っていると、五分もしないうちに二階堂が出てきた。下半身にタオルを巻いて、上半身に水滴をつけたままだ。それほど急がなくてもどこにも逃げないのに。

 「ん。俺も喉乾いた」

 ベッドの端に座っていた樹莉の隣に腰を下ろすと「ちょうだい」と二階堂は腕を伸ばした。樹莉は「新しいの出せばいいのに」と思いながらも賢く口には出さなかった。こういう時はそういうものだと思っておく。雰囲気は大事だ。それぐらい経験のない樹莉にだってわかる。

 
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