契約違反ですが、旦那様?
「ありがと、先生の相手してくれて」
樹莉はなんとか希柚を先生に預けて見送ると今度は慌ただしく自分の準備を始めた。ベースはすでに作っていたが、目元はもう少し華やかにしないと制服に映えない。樹莉はアイシャドウをのせた後、マスカラを重ねぬりしながらリビングの椅子に座る昴を鏡越しに覗いた。
「いや。こっちこそ朝の忙しい時に悪かった」
「そうね。悪いついでで申し訳ないけど私ももうすぐ出るから出てね」
「…え」
肩の上で跳ねる髪をひとつにまとめてだんごを作る。ピシッと髪を束ねた樹莉の首から上はどこからどう見ても美容部員だが、首から下は緩いマキシ丈のワンピースで非常にチグハグだった。
「…仕事、してるのか」
「ええ」
「…金ならあるだろう?」
昴は不思議そうに樹莉を見上げた。口座の中はほとんど手付かずだった。クレジットカードの明細もほとんどゼロに等しい。飛行機の中で今更だが、妻と娘がどんな生活をしていたのか気になり、慌てて確認したのだ。
「…そうね。でもお金じゃないから」
樹莉は黒の大きめのリュックにお弁当と水筒、仕事道具のポーチを入れてチャックを閉める。そして玄関に向かい、ペタンコの踵が擦り切れた走りやすそうなスニーカーに足を入れた。
昴の知る樹莉はハイブランドではないが、上品な革のハンドバッグを持ちヒールを履いていた。いつも余裕そうな雰囲気を醸し出していたのに、今の樹莉はわたわたと忙しそうだ。
「出るわよ」
「わかった」
昴もさすがに樹莉と希柚のいない家に居座るつもりはないようだ。樹莉は「常識がある人でよかった」と改めて安堵する。玄関を出て扉を閉めて鍵をしていると、希柚の書いた画用紙の表札に「行ってきます」と小さく呟いた。