契約違反ですが、旦那様?
樹莉はその日仕事をしながら昴から連絡のなかったこの一年を振り返っていた。昴が「金ならあるだろ?」と言った通り樹莉は仕事をしなくとも希柚と二人十分生活できるだけの余裕はある。だけど仕事を始めたのはお金のためじゃない。樹莉はいつも以上にテキパキと仕事に取り組んだ。
仕事を終えると早々に着替えて保育園に向かった。最寄り駅から自転車に跨り、家を素通りした。自転車を止め、保育園の入口にあるインターフォンを押す。
「まま!」
今の時代、保育園もセキュリティが厳しい。お迎えの大人でも、きちんとインターフォンで顔を見せないと鍵を開けてくれなくなった。インターフォンの向こうから娘の声を聞き表情を緩める。建物の扉が開き、中から希柚が顔を覗かせた。
「おまたせ、希柚」
希柚がトトトと駆けてきた。しかし斜めがけの鞄だけで両手が空いている。
今朝お着替えバックを持たせたはずなのに。そして希柚の後ろから担任の はなざわ先生が希柚のお着替えバッグを持って出てきてくれた。
「二階堂さん、おかえりなさい」
樹莉は申し訳なさそうに「すみません」とその荷物を受け取った。頼りない小さな手が樹莉の手の中に潜り込む。
「希柚ちゃん、今日はたくさんおしゃべりしてくれたんですよ。ね?」
「うん、ぱぱのおはなし」
樹莉はピシリと固まった。もちろん希柚に昴のことを口止めはしていない。
昴は正真正銘生物学上希柚の父親で外国にいたことも真実だ。そのことを口止めするつもりはない。
樹莉は一瞬にしていろんな想像をした。余計なことは言ってないだろうか、と不安になる。そわそわと落ち着かなかった。
「きゆ、ぱぱいないとおもっていたから、うれしかったの」
「…そう」
樹莉の頬が若干ヒクリとした。この調子で大丈夫だろうか、と不安になる。
昴はまた、数ヶ月後に異国の地だ。ようやく帰国したが昴の仕事上仕方がない。果たしてこの幼い娘はそれを理解…できないだろうな、と樹莉は考えるまでもなく諦めた。
「また明日ね、希柚ちゃん」
「うん、さようなら!あしたは ばすより はやくきます!」
希柚の言葉に樹莉はハッと意識を戻した。今朝のことを思い出して慌てて頭を下げる。
「いえいえ。希柚ちゃんのお父様がおかえりになっていたとは知らずにこちらこそ失礼しました」
「とんでもございません!来ていただいて助かりました。あのままならきっと私も仕事に遅刻していたので」
樹莉は改めて礼を述べ、自転車の籠に希柚の荷物を乗せた。門の前で先生が手を振ってくれているのを横目に頭を下げる。希柚は自転車の後ろの椅子から「ばいばーい」と手をふった。今日あったことを嬉しそうに話す娘に相槌を打ちながら樹莉は明日の夕食のことを考えた。