契約違反ですが、旦那様?
「あ、ぱぱ!」
木造の二階建てアパートにはエレベーターがない。自転車から降りた希柚は我先に階段を上ると扉の前に立っていた男を見て歓声を上げた。
「おかえり、希柚」
「ただいま!どうしたの、ぱぱ?」
駆け寄った拍子に被っていた麦わら帽子が脱げる。伸びたゴムに引っ張られた帽子が希柚の小さな背中でゆらりと揺れた。
「ん?希柚と樹莉に会いたかったんだ」
昴はよいしょと希柚を抱き上げる。希柚は朝の警戒心などどこへやったのかというぐらいには昴に懐いていた。よほど嬉しかったのか、それともやはり家族だとわかるのか。普段大人の男性を苦手としているのに、希柚は躊躇うことなく昴に甘えていた。
「…昴、どうして」
「どうしてって」
階段を上ってきた樹莉に昴が胡乱な目を向ける。そこまで邪険にしなくてもいいだろう、と言いたげな目に樹莉は溜息をついた。
「ぱぱもごはんたべる?」
「…パパは…なあ樹莉、俺の」
「ないわよ」
「だよなー」
「えーーー」
途端に弾んでいた可愛らしい声がしょんぼりと落ち込んでしまった。
しかし昴は樹莉に「飯を作れ」とは言わない。自分が都合を聞かずにいきなりやってきたことを理解していた。その上で「飯」だなんて図々しいにも程がある。
それでも樹莉が鍵を開ければ、希柚を抱いたまま昴は樹莉の後に続いた。
「じゃあパパはパパの分、買ってくるか。樹莉、それならいいだろ?」
「いい?まま?」
期待のこもった目が四つ樹莉を見つめる。樹莉はやれやれと肩を落とすとキッチンに向かい冷蔵庫を開けた。ひんやりとした冷気が汗ばんだ頬を撫でていく。その風が少し尖った樹莉の心もほぐしてくれた。
「…希柚、ハンバーグは明日でいい?」
「いいよー!ぱぱもたべる?」
「そうよ。今夜はオムライスにします!」
「やったー!」と希柚がはしゃぐ。昴の腕から降りてきた希柚が樹莉に突撃してきた。樹莉は希柚の汗で張り付いた髪を撫でながら「手を洗ってうがいをして」と促す。希柚は言われた通り、洗面台に向かった。
「…ありがとな、樹莉」
冷蔵庫の扉を閉めて振り向くと狭いキッチンを塞ぐように昴が立っていた。
樹莉は背中を向けて炊飯器の蓋を開けて中身を確認する。
「いいえ」
(どうせ、日本にいる間だけだし)
「あと、連絡できなくてごめん。ちゃんと話したくて待ってた。後で時間がほしい」
樹莉は驚いて振り返る。「わかった」と頷くと昴は安堵したように表情を和らげた。