契約違反ですが、旦那様?
”だから”の接続詞の使い方がオカシいのではないか。
樹莉はこの場でそんなことを思いながらにこにこしている夫の顔を見上げた。そして数秒してあの時を彷彿させる状況に同じ一言で返す。
「………はぁ?」
溢れていた涙が一瞬で引っ込んだ。同時に頬を撫でていた手をペイッと払う。濡れた頬を拭いながら苦笑している夫に咎めるように目を眇めた。
「正確には退職届を送りつけた、が正解。まだ受理されていない」
「いつ出したの?」
「昨夜、日本について。飛行機の中で書いてコンビニでプリントアウトして夜中にポストに入れた。到着するのは明日か明後日ぐらいじゃないか」
あはは、と呑気に笑っていた昴だがその瞳の奥が笑っていないことに樹莉は気づいた。この目は一度見たことがある。それは、かつて婚約中に買ったばかりのマンションに男を連れ込んでた、という話をしていた時と同じだった。
「…何かあったの?」
一応疑問系ではあるが、樹莉は確信していた。あの仕事人間の昴がよほどのことがない限り仕事を辞めないだろう。
「まあいくつか腹立たしいことはあったな」
「それが理由?」
「それもある」
昴は肩を竦めて会社とのトラブルを認めた。
その内容を聞いた樹莉は呆れて頭を抱える。
「だから連絡も何もなかったのね?」
「会社としては知らない、からな」
昴は希柚が身籠り、樹莉と籍を入れたことを会社に報告した。正確には総務課の担当者にメールを入れたという。しかし、そのメールを受け取ったはずの総務課が「受け取っていない」といった。メールアドレスは共通アドレスのため、誰でも確認できる。そして、もう5年近く前のログをたどり、ある女性社員のパソコンのログからそのメールを削除していたことが発覚した。
「緊急連絡先や保険証の送り先など必要事項を明記したフォーマットが削除された。ご丁寧にゴミ箱の中もすぐに消されていた」
その女性社員はすでに退職をしており昴も今更呼び出して咎めようとは思っていない。そんなことをするエネルギーも勿体無い。
それにその女性社員は昴に好意を抱いていた。言葉で直接言われた訳ではないが、まあまあなアピールがあったのだ。昴はあの当時のことを思い出して小さくため息を吐き出した。
「私も退職して色々手続きしたのが初めてだったからこんなものかと思ってたわ」
普通夫の扶養に入れば会社から保険証の送付などがあるはずだ。だけど樹莉は送られてこないことを不思議に思わなかった。国保にきり切り替えて入院費や出産費用は昴が出してくれたため、その金額が適切かどうかの判断もつかなかった。もちろん初産なのでそんなこと比較しようにもない。
「でも一番の理由は、閉じ込められた時にもっと樹莉と希柚との時間を過ごしておけばよかった、と思ったから」
きっかけはいくつもあった。だけど背中を押したのは「もう一生会えないかもしれない」と思った恐怖だ。その後、会社へ連絡すれば「結婚?聞いてないが」と言われて血管が切れそうになった。
予定より一週間前倒しで帰国し、退職届を上司の立川に送りつけた。せめて他の部署に、と言われるかもしれないが会社への信頼がなくなった以上このまま六菱にいるつもりはない。山崩れだけならまだ他の部署へ異動、もしくはグループ会社への転籍を考えたかもしれなかった。だがそんな気持ちも失せてしまった。