契約違反ですが、旦那様?
「最低でもいいさ。樹莉を手に入れるためなら仕方なかったんだ」
「…それ私が悪いって聞こえるんだけど」
「そこかよ」
苦笑した昴に樹莉はフンとそっぽを向いた。何か耳触りのいい言葉が聞こえた気がするがそれどころじゃない。
あれだけ契約書を確認した。確かに世間体のこともあり飛びついた。
昴に「俺の遺伝子じゃ不満?」と聞かれたことも大きかった。しかしそのおかげで希柚はとても可憐な美少女に育っている。
「俺はずっと樹莉が好きだった」
過去の自分の所業を嘆いていると聞き捨てならない言葉が落ちてきた。
いつの間にか昴が後ろに立ち、樹莉の細い肩を抱き締めていた。
「冗だ、」
「大学生の時から。一目惚れだった」
冗談はやめて、と言おうとして無理だった。被せられた言葉に息を呑む。
「その当時、俺はすでにアメリカの大学院に行くことを決めていた。夢でもあったから諦めるつもりはなかった。遠距離恋愛なんて無理だし、第一それがうまくいく保証なんてない。だからただ眺めているだけでよかった。俺が一方的に樹莉を知ってるだけさ」
樹莉はそんなこと全然知らなかった。確かに自分より三つ上の学年に少し派手な集団がいることは知っていた。その中に昴がいたことを知ったのは、スナックで出逢ったときで、“二階堂昴”という男性と初めて会ったはずだった。
昴は驚いている樹莉に小さく笑うと話を続けた。
「だけど、あの夜再会した。あまりこういうのは信じないけど柄にもなく”運命”だって思ったんだ。ある程度いい年でお互いパートナーがいない。でも樹莉は当時と変わらず手強そうだ。連絡先の交換すら躱されたんだ。下心を見せないように気をつけた」
全然気づかなかった。樹莉は昴のしてやったり顔を見てパッと目を逸らす。それ以上に何か危険を感じて昴を振り払おうとした。しかし当たり前だが、男性の力に敵うはずがない。
「は…っ、!」
離して、という言葉は昴の口の中に飲み込まれた。上から唇を押しつけられるように塞がれる。驚いて口を開いたまま受け止めてしまったせいで簡単に口蓋を撫でられた。久しくなかった刺激に背中を仰け反らせる。
…っ!
見開いた目が伏せられた長いまつ毛から眇められた妖しい目とぶつかった。
樹莉の本心を探るように覗き込む目だ。樹莉はキッと睨みつけてじたばたともがきながら何とか唇を離した。
「だ、ました、の?」
「嘘は何ひとつ吐いていない。自分の気持ちを伝えなかっただけだ」
昴は自分から逃げようとする樹莉を軽々と片手で拘束すると、もう片方の手で細い顎を掴み濡れた口元を拭った。
「欲しいものはどうやっても手に入れる主義なんだ」
知らなかった?と妖艶に笑う夫を樹莉は知らない人を見るように見上げた。