契約違反ですが、旦那様?
その土曜日。樹莉はいつものように朝起きて仕事に行く準備をしていた。今夜の夕食はパスタ。その準備も問題ない。そろそろ昴がくるころかと待っていると案の定玄関の扉を叩く音がした。
希柚が寝ているのを考慮していつも玄関の扉をノックして待つ。その音に気づく自分にも若干不満だが、今はとりあえず見て見ぬふりをする。
「おはよう」
「おはよ」
「希柚は?」
「まだ寝てる」
樹莉は昴と伴って寝室の扉を開ける。
大好きなぬいぐるみは布団から遠く離れて転がっているが娘の寝顔は幸せそうだった。
「希柚、ママお仕事行くわよ」
「…ん」
「パパとお留守番しててね」
希柚は「んんん、」と小さく呻くとぼんやりと目を開けた。少し汗ばんだ前髪を撫でながら樹莉は優しい眼差しを向ける。
「行ってくるね」
「はあい」
「昴よろしく」
「任せとけ」
大丈夫かしら。
樹莉は少し心配になりながら、仕事場に向かうのだった。
***
百貨店の土曜の朝は正直それほど混まない。なので、売上確認をしたり、OJTをしたり、と販売以外のことに時間を割いた。
昼を過ぎてぼちぼちと客足が目立ち始める。
化粧品コーナーは1階の入り口に近い場所にあるので、客の流れはすぐにわかる。
「皆催事に行きますねぇ」
なんて、同僚の河本弥生がブーブー言っていたのが遠い記憶のようだ。
13時を過ぎ、休憩から戻ってきた時には入れ食い状態だった。
カウンターは満杯。ちらっと見るだけの客も知らないうちに買ってしまっているんだからBAの営業力がすごい。
樹莉はひっきりなしに接客をして、やっとひと息つけた時には午後五時半を回っていた。ちょっとトイレ、と離脱して戻ってくればカウンターに小さなお客様がいる。
「きらきらしてる!」
「さらに可愛くなりましたねえ」
聞いたことのある声に樹莉は慌ててバックヤードに荷物を置きフロアに戻った。すると希柚が手鏡を持たせてもらい、口紅など必要のない唇に新商品のグロスをつけてもらっている。
ベタベタしない。乾きやすい。取れにくい。
この三拍子揃った渾身のグロスだ。
「希柚」
「あ、まま!みて!きらきら!」
嬉しそうにはしゃぐ娘に樹莉が呆れた目を向ける。もちろん向ける先は河本だ。
「松木さんと入れ違いでお店にいらっしゃったんですよ。“ママいますかぁ?”って」
「だとしても」
「ほら、今フロアにお二人しかお客様いませんし」
同僚の視線の先には真剣な目で新商品を眺めている夫の姿があった。娘を放ったらかして一体何をしているんだ。
「まま、もうかえる?きゆ、おむかえきたよ。いつもきゆのほいくえんに ままがきてくれるから きょうは きゆが おむかえしたの」
えっへん、と威張る希柚に河本が「かわいい」と悶えている。確かに可愛いのだが、と樹莉は眉を下げる。