契約違反ですが、旦那様?

 
 いってらっしゃーい!

 樹莉は今朝も無事希柚の見送りを終えて達成感に満ちた気持ちで自宅に戻った。アパートの玄関の紙の表札が強い陽射しのせいか日焼けしてしまい若干黄ばんで丸まっている。

 (新しいの書かせようかな)


 そんなことを考えながら部屋に入ると、当たり前のように昴が椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。

 「仕事は?」
 
 いつもなら慌ただしく出かける樹莉だが、今朝はゆっくりとしている。おまけにメイクも最低限だ。全然作り込まれていなかった。

 「振休」
 「ふりきゅー?あれか、この間の」
 「そう」

 平日にゆっくりできるなんて何年ぶりだろう。
 樹莉はわくわくしながら冷蔵庫を開けて豆乳を取り出した。

 「なら、デートしよう」

 美容院に行ってひとりでブラッと息抜きをする。今日の樹莉の予定はそれだった。それなのに。

 「…でーと?」
 「そう。二人きりなんて早々なれないし」

 樹莉は数日前の夜のことを思い出した。買ってもらった“落ちにくい”で定評のあるリップグロスが見事に剥げるぐらいにキスをしてとろとろにされた夜のことだ。ラグに押し倒されて履いたばかりの下着が冷たくなるぐらい汚された。

 「この先の話もちゃんとしたい」

 不埒なことを考えていた樹莉の頭を殴るように昴が真面目なトーンで付け加えた。数秒前まで考えていたことを奥へ奥へと押し込む。

 「…美容院に行く予定だったの。別日で行かせてくれる?」

 せっかくのフリーデーなのに、と暗に込めた。
 樹莉の言いたいことがわかったらしい。昴は「もちろん」と頷く。

 「どこ行くの?」
 「どこ行こう。鎌倉?湘南?箱根でもいいな」

 どこも希柚が生まれる前に二人で行った場所だ。樹莉は懐かしく思いながら「そうね」と返した。

 「…仕事は大丈夫なの?」
 「平気。それぐらい権力あるさ」
 「もう辞めるからって」

 昴は無事退職届が受理された。少し揉めたらしいが、昴の“会社として信用できない”という思いが強かったので、異動という話も出なかった。

 「次はどうするの?」
 「どうすっかね」

 樹莉はグラスに注いだ豆乳を飲みながら昴に視線を向ける。声は惚けていたもののその表情はとても穏やかだった。

 「昴のことならもうすでにいくつか話があるんでしょう?」
 「あ、バレた?」

 てへっと肩を竦めるが、40オーバーのおっさんそんな顔誰得なのか教えてほしい。

 樹莉はそんな夫に白い目を向けながらグラスを洗い籠に置くと寝室の鏡台の椅子を引いた。引き出しを開けて中から化粧道具を取り出す。買ってもらったばかりのパレットは希柚の手の届かない引き出しに閉まっている。

 

 
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