契約違反ですが、旦那様?
だけど素直に「不安」だといえなかった。伝え方がわからなかったし言ったところで昴が困るだけだ。仕事を放り出してほしいわけじゃない。社会人として責任ある大人として仕事を蔑ろにするのはよくない。それに昴が選んだことだ。
だから樹莉には口出す権利もなければ口出す理由もない。ただ「不安」だと言ったところで問題が解決するわけではなかった。
しかし昴との連絡が途絶えた時、樹莉は後悔した。「大丈夫」と思い込ませる一方、漠然とした不安が大きく大きく育っていく。その不安と向き合う時間は正直キツかった。だから希柚を連れてかつて住んでいた場所に戻ってきた。
昴と出逢った場所に。
空港からそれほど遠くなく昴が帰ってきやすい場所に。
もしかするとひょっこりと帰ってくるかもしれない。
そんな淡い期待を持って毎日忙しくして昴を忘れようとした。忘れてしまえば不安はなくなる。忘れてしまえば傷もつかなくてすむ。
「それでもやっぱり樹莉とこうしていられる時間があるなら間違いじゃなかったとも思うんだ。迂闊だったかもしれない。たくさん辛い思いをさせたかもしれない。それでも俺は自分勝手だけど、どんな形でもいいから傍にいたかった」
日に焼けた腕が力強く樹莉を抱きしめる。身体に力を入れて踏ん張っていたのに、昴の言葉で最も簡単に力が抜けた。
初めて知ったぬくもり。
誰かと過ごすことの愛おしさ。
別れ際の切なさも
会いたくてたまらない渇望。
全部昴が「契約」を持ち出したから経験できたこと。
生まれて初めて女の悦びを知り、愛することの意味を知った。
だけど怖くてずっと目を背けていた。
「契約」という言葉で自分を言い聞かせて突っぱねてきた。
本当は樹莉だって、昴と共にいたい。
それ以上に依存しそうになる自分が怖くて怖くてしかたなかった。
だって“捨てられる”かもしれない。
“要らない”って言われるかもしれない。
かつての母や友人のように。
そんな惨めな姿を晒したくなかった。
男に弄ばれて、捨てられて、泣いて。
夫に依存していたから母はたくさん苦労した。
金銭面も精神的なものもそうだ。
樹莉は「こうなってはいけない」と幼い頃から思っていた。母が日に日にやつれていく姿は見ていて痛々しい。それを見て見ぬ振りすることもしんどかった。
「考え直して欲しいんだ。俺は樹莉と希柚の傍にいたい。毎日朝起きて“おはよう”って言って“おやすみ”って眠るんだ。時々こうやってデートもして、できれば爺ちゃんばあちゃんになっても手を繋いでデートしたい」