愛などなくとも
――出火元は隣人の家からだった。隣人は外出していたため、周囲の人が気づいた時にはもう手遅れで、真琴の部屋まで火の手が上がっていた。
 こぢんまりとした築三十年のボロアパートは、一つの部屋が燃えるとたちまち周囲にもその火の粉を振りまいたのだった。
 真琴は全てを失ったのだと実感した。怒る気力も、泣く気力もなく立ち尽くす。ただただ無気力に現実を受け止めていた。
 焼かれていく我が家を眺めながらも妙に頭が冴えており、この状況でまずしなければならないことは住処の確保だということを考えていた。
 ひとまず今夜だけでも凌げる場所を――。
 しかし、真琴の実家は県外の離れた場所にあるため、頼ることができない。
 自分より一足先に上京した三歳上の兄がいるので、真っ先に頼る先として思いつき、兄に電話をかけてみる。
 数コールのちに穏やかな声が聞こえた。久しぶりの肉親の声に甘えたくなってしまったのか、その時始めて涙が溢れた。

「真琴? どうした? まだ仕事中だろ?」
「お兄ちゃん……っ! 私の、私の家が……か、火事で燃えちゃったの……住むところがなくなっちゃったの……」
「え、え!?」
「突然の連絡で申し訳ないんだけど……お兄ちゃんとこ、しばらく住まわせてもらえないかな……」
「困ったな……」
「え……?」
「助けてやりたいのは山々なんだけど……兄ちゃんの寮、社員以外連れ込み厳禁なんだよな。まあでも事態が事態だし、管理人さんに掛け合って……」

 会話の途中でいきなりスマホが奪われた。
 背後を振り向くと、真琴のスマホはそこにいた男の手に移っていた。
 男とバッチリ目が合うと、男はにこっと笑い、そのまま通話を乗っ取り始めた。

「健太郎、今の話聞いてたよ」
「あれ? その声って……(かなで)?」
「そう。今、真琴と一緒にいるんだ。真琴の家が大変なことになってね。でも真琴の実家は遠いし、健太郎の寮は確か連れ込み厳禁だったよね?」
「あぁ、そうなんだよ」
「そういうことなら、ウチで預かってもいいかな? 次の家が見つかるまでの間だけ」
「オマエんとこに!? ……あー、でもそうだな。お前とは幼馴染だし、知らない所を転々とさせるよりかはマシか。両親も安心すると思う。面倒かけるけど、妹のこと頼めるか?」
「任せて。困ったことがあったらすぐに連絡させるよ」
 真琴には男の一方的な言葉しか聞こえないが、男の都合の良いように話を進められているのはわかった。
 しかしなぜ、この男がこの場にいるのかはわからない。

「はい、今の話聞いてたでしょ? そういうことに決まったから」

 笑顔の男は通話の終わったスマホを何も悪びれもせず返却しようと手を伸ばしてきた。
 この男――瀬戸(せと) (かなで)こそ、兄の健太郎の同級生で、健太郎と真琴の幼馴染であり、真琴にとって最大の天敵と認識している人物であった。

「待って! 奏、アンタ何でここに……っていうか勝手に話を決めないでよ! アンタの家に泊まるなんて絶対にイヤなんだけど!」
「でも二月のこんな寒空に可愛い真琴を置いていけないよ」
「あのね……今時二十四時間やってるレストランだったりネカフェで凌ぐことくらいできるんだから!」
「次の家がすぐ決まるとは限らないよ? それまでずっとそんな生活するの? 無理でしょ」
「それは私が決めること!」
「可哀想に。気が動転してるんだね。帰ったら真琴が好きなミートスパゲッティを作ってあげるよ。それに僕は本当に心配してるんだよ。真琴とはずっと小さい頃から一緒で家族同然だからね。頼むから、大人しくウチに匿われてよ」

 いつもヘラヘラと薄笑いを浮かべている嫌な男だが、この時ばかりは真剣に話しているのが感じ取れたので、真琴も冷静になった。
 確かに、身元がハッキリしているこの人物に頼った方が良い。
 小さい頃から真琴を追い回し、嫌がらせをしてくるこの男のことが大の苦手だったが、ひとまず今夜だけでも――真琴は奏の提案に従うことにした。
 素直に聞き入れた様子を見て、奏の表情はまたいつもの薄笑いに戻った。

「せっかく真琴に会えたから声をかけたのに、無視して全速力で走っていっちゃうから。気になって追いかけて来ちゃった」
「は!? じゃあアンタずっと私を付けてたってこと!?」
「時々話しかけてたのに、全然気づかなかったのは真琴でしょ。でもまあ、こんな状況を聞かされてたら無理はないね」
「アンタね…… ていうか、仕事は?」
「真琴を優先して今日は早退ってことにしてあるから、安心して」

 軽い眩暈がした。やっぱりこの男は異様だ。
 何が原因かはわからないが、真琴は奏と出会って、ある時から異様な執着心を向けられている。
 しかも厄介なことに、この男は周囲の人間には謹厳実直に見えるようで、毛嫌いする真琴の方が異様な目で見られることが多かった。容姿端麗、何をやらせてもそつなくこなす奏は完璧超人と周囲に認知されていた。
 真琴には、どんなに突き放しても笑顔で追ってくるこの男の神経が心底わからなかった。
< 3 / 12 >

この作品をシェア

pagetop