愛などなくとも
 大家といろいろ話し合い、しばらく知人の家に居候することになった旨を伝えたら、大家はひとまず安心したような表情を見せた。
 そのあと、奏に促されるまま二人でタクシーに乗り、奏のマンションへと移動する。
 すっかり空は茜色に染まり始めていた。初めて奏のマンションに来たが、一人暮らしするには高級すぎるようなマンションに驚いた。
 厳格な雰囲気が漂うオートロックのエントランス。受付の窓口とは別にクリーニングサービスの窓口が備え付けられていた。
 今まで細かく見ていなかったが、確かに奏の身に着けているものを見ると、スーツや革靴やらはピカピカと光沢を放っており、いかにも質の良い高級品のように思えた。
 奏の部屋は十階の角部屋だった。玄関を開け、電気をつけると白いライトが少し眩しく感じた。
 突然来たのにも関わらず、中はとても綺麗に片付いていた。モデルルームのようなモダンでオシャレな家具が揃っており、ブラックとグレーを基調としている部屋だった。

「夕食用意するから、お風呂でも入ってきたら?」
「あの、言っとくけどね。匿ってもらえるのは有り難いんだけど、変な下心なんて持たないでね」

 奏は一瞬ぽかんとした表情を浮かべたが、すぐに真顔になりこちらへ詰め寄って来た。

「さっきも言ったけど、今回については本当に助けたい一心だよ。使ってない部屋が一つあるから、真琴はそこで過ごしてもらう。ちゃんと鍵も付けられる部屋だから」

 鍵付きの別室があるということを聞いて安心したようで、真琴のこわばった表情が少し緩むと、奏はさらに距離を詰めて来た。

「それに、そういうことは着いてくる前に言わないと。家に上がってからじゃ遅いよ。真琴、もしかして他の男にもそんな調子じゃないよね?」

 奏は覗き込むように瞳をじっと見つめる。真琴は意味がわかると顔を赤らめ、視線を逸らしてしまった。

「そんなことわかってるわよ……念の為、釘を刺しておいただけなんだから」
「そう。着替えは僕の部屋着をひとまず使って。必要なものはまた今度買い揃えよう」

 そう言って奏はまたキッチンの方に向き直した。
 真琴はその言葉に甘えるように、奏の部屋着を抱えてバスルームへ向かった。
 バスルームも当然のように綺麗で、カビひとつ見当たらなかった。綺麗なお風呂は心地が良い。
 なんだかんだいいつつも、この家でのバスタイムを満喫した。
 本当だったら今夜は定時退社でケーキを食べていたはずだったのに……そんなもやもやした気持ちも、綺麗さっぱり水に流すことにした。
 お風呂から上がると、与えられた奏の部屋着を着る。
 奏は細身だが、身長差が約二十センチもあるものだから、さすがにオーバーサイズだ。
 着るときに無意識に服の匂いをかいだ。うっすらと柔軟剤の香りがするが、ほぼ無臭に近かった。
 脱衣所の洗面台横にドライヤーがあったので、拝借してロングヘアーを乾かす。
 髪を乾かし始めてから十分ほど経った頃だろうか、大好物のミートスパゲッティの香りが脱衣所まで届いていた。
 着替え等を終えてキッチンに行くと、ちょうど良いタイミングで料理が完成したようだった。本当にこの男は嫌味なくらい完璧超人だ。
 戻った真琴の姿を見て、奏はピタッと固まった。
 何が起きたかわからず、真琴は眉をひそめると、数秒で奏は元に戻った。

「さ、今日は疲れたでしょ。ご飯にしよう」
「うん。いただきます」

 机に並ぶ美味しそうな料理に自然と表情が綻ぶ。食器も美しいものが揃っており、隙が無い。
 真琴は過去に奏の料理を食べたことがあったので、味は絶品であることが保証されていた。
 散々なことがあったけど、絶品の大好物が食べられることが素直に嬉しくて、喜びを隠せない表情で夕食に手をつけた。
 真琴が夢中で食事をしていると、正面に座る奏の手は止まっていた。
 ふと疑問に思い、顔を上げて相手の顔を見ると、こちらをじっと見つめて固まっていた。
 その表情は、いつもの薄ら笑いを十倍くらい上機嫌にしたような表情で、非常に満足そうだった。

「な、なに?」
「真琴の笑顔を見るのは久々だなって」
「奏が嫌がらせをしてこなければ私だって普通に笑うんだけど。そんなに見られてると食べられないからやめてよ」
「はは。あ、そういえばコレ、渡しておくから……」
 机の上には、何もキーホルダーがついていない素の状態の鍵が置かれた。この家の合鍵だった。
「うん……。あ、あの、ありがとうね。いろいろ、助けてくれて……想像してたよりも良い環境を与えてもらって、正直すごく助かった」

 奏はニコニコと薄笑いを浮かべているが返事がない。
 真琴にとって奏は天敵であり、この相手に謝辞を述べる日が来ようとは思ってなかった。
 自分がお礼を言うとてっきり喜んでくれるとばかり思っていたのに、相手からの返事がなく、少し不安に感じた。
 その後も奏はニコニコしているだけで、ろくに話さず、返事も生返事のようだった。薄気味悪いが、特に奏と話を弾ませたいわけでもないので、そのままにして過ごした。
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