観念して、俺のものになって
口元にカップを持ち上げたまひるちゃんは俺の淹れた珈琲の香りを胸いっぱい吸い込んで、へらっと笑いそれに口をつける。
少し間を置いて、彼女はうっとりとした幸せそうな表情で呟いた。
「はぁ、おいしー……!」
そう、それが見たかったんだ。
足元が定まらないような、ふわふわした気分のままカウンターの中へと戻る。
ユミちゃんがニヤニヤしながら「いま暇なんで、しばらく私1人でも大丈夫ですよ!休憩どうぞ」と言ってくれたので、それに頷きバックヤードへと入る。
すぐに向かったのは喫煙ブースだった。
置きっぱなしにしているライターと煙草を一本、自分を焦らすようにゆっくりと取り出して火を点ける。
普段より深く吸い込んだその煙は、忙しかった1日の終わりの1本よりも、ずっとずっと美味しかった。
酩酊するような、深く甘いそれを肺の奥へ送りながら、そのまま天井を仰ぐ。
あの子が俺の淹れた最高の珈琲を飲んで笑った!俺の珈琲を美味しいって……!!
それが、本当に嬉しくてたまらなくて。
俺は蕩けるような極上の味の煙を惜しみつつ、換気扇に向かって吐き出した。
短い休憩から戻ると、店はガラガラだった。
ユミちゃんは暇すぎて、てきぱきとカウンターの中の清掃を始めている。
俺が休憩に行っている間に、あの子はどうやら珈琲を飲み終えてしまったらしい。
いつものように文庫本に釘付けになっていた。
それをつまらなく思いながら、店の中を見回す。いつもやってくるカップルが珈琲を飲み終えて席を立った。
「ありがとうございました」
店を出てゆく彼らに声をかけ、頭を下げる。
店にいる客はあの子だけになってしまった。
周りが静かになったからなのか、彼女はいっそう本に集中しているようだった。
……まひるちゃんが飲み終えた珈琲カップを下げてこようかな。
ふと思いつき、俺はカウンターを離れる。
万が一誰かが来店したとしても、カウンターにはユミちゃんがいるからどうにかなるはずだ。
まるで開店前のような、無人の店内を歩き彼女の方へと近づく。
あの子の手前、3メートルほどの場所へ立ってみても本から全く顔をあげなかった。
どこまで近づいたら、俺に気がつくだろう。
完全に魔が差したとしか思えない考えが浮かんだ。